れから二里を赤松村までバスに運ばれて、残りの径は怒山《ぬやま》の小屋まで徒歩だつた。深い森があつた。谷川のふちへ添つて鋸の径を登るべきだつた。鋸山峠の見晴しは、遠い海原の上の島まで望まれた。俺は、あの峠の松の根元で独り悠々と休息することを楽んでゐたのだ。鋸山、唐松、鬼柳、音取、泥臼、狐岡、寄生木――山を登り降るにつけて、そんな滑稽とも怕ろしとも云ひ難い名前の村々を踏み越えて漸く怒山へ達するのだ。第八の館は、狐岡村の「台の宿」といふところだつた。
俺は、そこまで第八と伴れ立たねばならぬのか? と考へると、鬱陶しかつた。
第八は、久良が太吉などと何んな間柄があらうが無からうが頓着もなく、
「あの女は、うちのものだ。」
と落着いてゐた。「ともかく、あの目玉にはお久良が竦毛を震つてゐるといふんだから、ものになる気づかひはないさ。」
「君は好い年をして、女に悪く甘いといふ噂だね。」
俺は、第八の種々な不道徳を知つてゐたので非難のつもりでさう云ふと、彼は反つて嬉し気に、ヘツヘツ! とわらひ、
「お久良は仲々の別嬪ぢやないか。わしとの間柄もまんざらぢやないにさ。」
などとヤニさがつた。それから彼は、また別に夫ある女の袖を引くことのおもしろさなどについて弁じたてたり、久良に恋慕してゐる旨を白状した。
鋸山にさしかかると彼の脚どりは稍々ともすると後れ勝ちで、一町も先へ立つてしまふ俺を呼び返すのだ。
「ゆうべ少々飲み過ぎたせゐか、下肚がどうも息苦しくて適はん。」
と彼は顔を顰めて、俺の水筒を傾けた。水かと思つたら、これや酒か! と彼は悦んで、漸く峠の松に達すると、どつかりとみこしを据ゑた。彼は、狐岡村の改名運動のために町へ赴いたことやら、前夜の遊蕩の素晴しかつたことやらを自慢した。
俺は、聞くともなしに耳を傾けるのだつた。すると、どうやら俺の泊つた海辺の宿の隣り客が彼であつたらしい。うとうととすると、女の悲鳴やらで俺は時々眠りから醒されたが、そんな物音で別段に俺は安眠をさまたげられもしなかつた。第八のはなしは支離滅裂だつた。
低気圧が沖のあたりを覆うてゐるのか、水平線のありかが見あたらず、島の姿も消えてゐた。陸は明るい陽射で、山々にあたつた光りが前夜の雨に洗はれた白い村や野辺に滑つてゐた。
「しかし、君、お久良が云ふにはだね――太吉は滅多に他人《ひと》の前では掛けぬといふ立派な目玉を所蔵してゐるといふが、それはほんたうかね? まつたく太吉の右の眼は偉く優しい色男の眼だ。あれが若しも二つそろつてゐたひには、お久良が惚れるのも当り前だが、嘘だらう、そんなに巧者な目玉なんて、いくら今時とは云ふもの何処へあつらへたつて出来る筈のものではないぜ。あの優しい目がそろつたら俺も兜を脱ぐが。どうもお久良は太吉の片目に瞞されてゐるとよりは思はれぬのだがね……?」
「…………」
俺は、余ほど、太吉の上等の眼玉を今ここに持つてゐるんだぞ――とおどかしてやらうかと思つたが、第八の極まりもない陰険な性格を思ひ出して、素知らぬ風を装つた。うつかりそんなものを見せでもすれば、過失を装うて石の上にでも取り落す位ゐのことは第八にとつては朝飯前だ。太吉が、なるべくそれを普段に使用しなかつたのは、左様な意地悪る連の悪戯を怕れたからだ。太吉は、やがて水車小屋と運送屋で資金を拵へて、一日も速かに怒山の里を見棄てる決心だつた。他国へ赴いて、あの眼を用ひてゐる限りは誰もそれを義眼と疑ふ筈もないのだ。怒山の者共は、わけても片目の人を軽蔑するのが風習だつた。
「ねえ、そんなものはありはせんだらうがな?」
第八は仲々執拗だつた。
「ツアイス製などには相当のものがあるさうだが、色を合せるのが厄介でね……」
俺は空呆けるより他はなかつた。
「何だい、それは?」
第八は、それでももう不安さうに膝を乗り出した。
「東京の医療具店へ当人が赴いて、研究すれば、それこそ肉眼と寸分違はぬものを容れることは出来るのさ。然し、俺は太吉の右の眼の色も形も十分知つてゐるから、近いうちに取り計らつてやらうと考へてゐるのさ。」
もともと太吉のそれは俺の計らひで、何時壊れても代金さへ差支へなければ間違ひなく取り寄せられてゐたのだ。
すると第八は鼻と眼の間に深い皺を寄せて、
「止せ止せ!」
と、つまらなさうにはき出した。「余計な世話を焼くものぢやないさ。わしや、ほんたうに君の料簡が解らんのだよ。前々から云はうと思つてゐたんだがな……」
こんな山の天辺だといふのに第八は、何かに気兼する風に俺の耳に、悪臭を含んだ口を寄せた。俺は、思はず鼻をつまんだ。――「太吉を君は一体何う思つてゐるのか知らないが、奴はあれだけ君の世話になつてゐるくせに、わしのうちなどに来て酒に喰ひ酔ふと、徹頭徹尾君の雑言だよ。云は
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