うか、あいつは――と奴が君を指してだ、あいつはお久良を俺から横どりしたがつて、厭に俺達に親切がりやあがる――と、先づ斯うだ!」
第八は一息入れて、凝つと虚空を睨んだ。彼の鼻はあかかつた。俺は、太吉を信じてゐるのだから、第八の突然の鬼のやうな真面目な表情が空々しかつた。俺は、脚下の野をまつしぐらに走つて来る汽車を見てゐた。
何をいつまでも重々しく第八は力み込んでゐるのか、嘘を考へるのは六ヶしいに違ひなからう! と俺は思つて、それにしても仲々彼が言葉をつづけぬので、ちらりと容子を振り向いた。第八の表情は、怖ろしい仁王のおもむきで唇を噛んだままだつた。迎合したと思はれてはならぬと俺は、直ぐに視線を反らして燐寸をすつた。
やがて俺は、異様にも第八の、
「うむ……、う……、こいつは何うも……」
と、聞くも不思議な仰山な煩悶のうめき声を感じた。俺は、唾を吐いて見向かうともしなかつた。
「こいつは、いけないツ! しまつたことになつたわい……」
第八のうめき声は絶頂に達して、見ると、切腹した者のやうにドウと前にのめつた。彼は下腹を我武者羅に抱へて、虎のやうに吠えはじめた。俺は、うしろに廻つて抱へ起さなければならなかつた。のめらうとする第八の重さは、俺の両腕の満身の力に逆つて強靭なバネであつた。
癲癇なのかしら? と俺が呟くと、第八は激しくかぶりを振つた。意識は明瞭なのである。
「何うすれば好いんだらう?」
俺は途方に暮れた。
すると第八は唐松村へ降る櫟林の方を指さして、
「氷――氷をたのむ!」
と頭をさげるのだ。多分、櫟林の下の沢田のふちへ降つたら、氷は発見されるだらうから、
「大いそぎで……」
と喚いた。彼の急病は、睾丸炎の勃発だつた。病名が判然すると俺は安心したので、まさかそれほど無情の腹もなかつたが、
「俺は先を急ぐから失敬したいね。」
とからかつてやつた。第八は、悲鳴をあげて芝の上を転がつた。幸ひと沢の日蔭の水溜りに薄氷が張り詰めてゐた。帽子が防水布なので、それに氷の破片を盛つて、引き戻ると、第八の発作は稍々収まつたものか、坐つたかたちで俺の袋の上に腹這つてゐた。然し激痛に襲はれる毎に彼は、こんにやくのやうに身悶えながら袋に獅噛みつくのであつた。
帽子を更に手拭ひにくるんで、俺は彼に手渡した。彼は [#空白はママ]氷嚢を患部に結びつけるのであつたが、俺はその間に唐松へ走つて山駕籠を伴れて来ようとした。
「唐松までは、一里もあるぢやないか。そんなに長い間を、俺ひとりが斯んなに苦しんで、斯んなところに独りで寝ては居られない。」
「もう、そつちを向いても好いかね?」
――三四時間手当をつづけて休息したら、どうにか動きはつくやうになるであらうから、それまで看病を頼むと第八は泣くのであつた。
凡そ三十分間毎に、俺は氷嚢の端をつまんで沢へ降らなければならなかつた。
「唐松まで君の肩を借りて、今夜は唐松泊りとするんだね。」
第八は辛うじて立ちあがると俺の杖と肩をたよりにして出発した。降り坂になると第八は苦痛に堪へず俺の登山袋の上にのしかかつた。小包は、しかし木製の箱だから安心だ! と俺は思つた。
平坦な道になると第八は稍々苦痛から救はれて、そろそろと太吉の蔭口をききはじめた。そして、もう今宵あたりは久良は親父に引つぱられて狐岡に来てゐるだらう、さうと決まればあの女だつて茶屋の華やかさに汚れて、あんな目ツカチのことなどは即座に忘れるに相違ない、一層唐松で駕籠を雇つた上、一気に花の山を越さうか――などと好い気なことを呟いた。
底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
2002(平成14)年7月20日初版第1刷発行
初出:「新潮」新潮社
1934(昭和9)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:伊藤時也
2006年8月3日作成
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