されて久良は、決してその眼の太吉と向き合ふことが出来なかつた。その眼の太吉が、嬉しいことを呟いても、久良は共々に悦ぶことが出来なかつた。また彼が、憂世を喞つて悲しんでも、同情も寄せられぬのを久良は切ながつた。
 ラムプは消えても、火気の焔が太吉の胸から顔へかけて赤く毒々しかつた。
「もう寝《やす》んだのかね?」
 久良は、男の安否をうかがふのであつた。
「ど、う、しようか?」
 俺は太吉の耳に口を寄せるのであつた。
「…………」
「ふたり、ちやんとそこに居るでねえか!」
 久良は節穴から覗いた。
 太吉の膝頭は小刻みに震へてゐた。やがて、せツせツせツ! と蟋蟀に似た歔欷であつた。

     二

 俺は外に出て、そのわけを久良にはなした。久良は、袂で顔を覆つた。
「お前えのうちに、草鞋あるかね?」
 俺は太吉の手の草鞋が三足になつたら、それを穿いて十里先の町へ金策へ赴くのだ。町の郵便局には、二円五十銭が一個、五十銭が三個、代金引換郵便で到着してゐた。馬の背と山駕籠と草鞋の旅人だけが通る嶮しい山径だつた。
「今夜、おれが自分でこしらへて見よう。」
 久良は、編み方をさぐる指の先を月夜の中に動かせながら、
「太吉は宵ツ張りは出来ないが、おれ、二晩位ひは平気よ。」
 と云つた。太吉は、女の傍らでも眠らなかつた。眠つてゐても、何かをねらつてゐるかのやうに、あいてゐる片眼を見る者は、囲炉裡の傍らで坐つたまま居眠りをするところに向つてゐる俺ひとりだつた。
「夫であり、妻であらうとする者が、たつた一つの目玉のことぐらゐに、何故そんなに拘泥するのか俺は不思議でならぬ。」
 と俺は首を傾けるのであつた。然し、それは、夫であり、妻であらうとする者にだけしか解らぬ絶対の矛盾であつて、また二人は夫々まことに風の変つた個人主義者であるのだ――といふ意味のことを久良は長たらしい方言で説明した。
 俺と久良は川のふちにたたずんだ。まはりの山々も、森も、畑も、そして流れも、腹一杯に光りを飽満して、ふくれてゐた。俺は、ぐるりと身のまはりを見廻した。自分の影も見あたらなかつた。まるい月は恰度俺達の頭上にあつた。
 久良は、橋のたもとのあたりまで送つて貰ひたがつたが、斯んなときには必ず扉の節穴から女の様子を注意してゐる太吉に、俺は遠慮して、
「ここで見てゐてあげるよ。」
 と断はつた。別段、太吉は妬心は無かつたのであるが、秘かに情人の姿を眺めることを好んだ。
 橋を渡つて、向方の稲むらの間に達しても動いてゆく久良のかたちは、どこまでもはつきりとしてゐた。久良は、戯れに稲むらの間を事更にジクザクと縫つて、このまま別れてゆくのが名残り惜しいといふ風に、いつまでも振り返つてこくりこくりと首を動かせたり、慌てて稲むらの蔭に隠れたりした。それは扉の内の恋人への会釈に相違なかつたから、俺は柿の木の幹にもたれてぼんやりと見送るだけの役目を果してゐた。
「済まないね。」
 やはり節穴から覗いてゐた太吉が、太い声をかけた。

     三

 久良がつくつて来た二つの草鞋の一足は大き過ぎて芭蕉のやうであり、一足は指が悉く喰み出して役に立たなかつた。久良はそれらの製作に疲れて、囲炉裡のふちに伸びた。太吉は、色眼鏡の代りに、片方の眼だけを蓋する四角の布に糸をつけて耳にかけてゐた。
 久良は、太吉の自然の一つの眼を惚れ惚れと見あげて、
「これは優しいけれど……」
 と云つた。だが、その目覆ひの直ぐ下の有様を想ふと、気味悪くて近づけぬと神経性の痙攣を全身に波立せた。太吉は、優しい眼の方の横顔を久良の側にして、草鞋の手工に急いでゐた。
 暗いラムプであつた。風模様だつた。ラムプの灯が、扉の隙間からの風で稍々ともすると消えかかつた。
「荒れるのか知ら?」
 俺は、木々に鳴る風に耳を傾けた。太吉は外の模様をあらためるために立ちあがつて、
「明神ヶ岳の空が明るいから、荒れる気づかひはなからう。これで雨を飛ばしてしまはうといふんだから、あしたは晴れだよ。」
 と、いつまでも扉の外へ顔を曝してゐた。
「雨だつて俺は出かけるよ。この靴に草鞋をくつつけて……」
 俺は、夏のうちにヤグラ岳を越えて、丹沢山へ踏み入る目的でそろへた山登りの道具を持ち出して囲炉裡のふちに並べてゐた。登山袋も靴も杖も手袋も新しかつた。計画を立てて支度だけは整へたものの、急に水車の支障が起つて実行し損つたのである。
 久良が、あしたの俺の弁当をつくるために竃の前で吹竹を構へてゐた時、
「お久良お久良、手前はまた斯んな目ツカチのところに来てやがんのか!」
 と赤鬼のやうに酔つ払つた久良の老父が呶鳴り込んで来た。
「余計な世話だよ、目玉さへ這入れば太吉は立派な男なのよ。」
 久良は養父と犬猿だつた。
「ほざくな。さあ、帰れ……」
「お
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