大して楽な気持も味へず、前の晩毎には、可なり亢奮もし、相当に教科書にも眼を曝し、課目も全部受験したから、何の私立大学の文科位ひのつもりで、万一も気遣はず、成績発表の日には大手を振つて登校した。貼出紙のうちに、岡村純吉の名前は消えてゐた。勿論、恋愛事件などのあつたわけではない。小胆な彼の喉には、その刹那から異様に重い玉がつかへて、今だにそれは消化しなかつた。
 E――を発見したのはその間もなく後のことであつた。この二つのドス黒い玉が重なつて、彼の胸を塞らせてゐた。
 落第のことでも純吉は、大いに狼狽して、一寸世を味気なく思つたりしながら愴惶として、先づ祖母の許へ走つた。――そして、それは両親に秘して呉れ、その代りこの先は……などゝホロリとして頼んだりした。(一年位ひのことは、二三年のうちには何とか親達の前にはごまかして済むだらう、たつた一年ばかり。祖母にも云はなければよかつた、とんだ慌て方をしたことだつた……)
 加藤と純吉は、時々斯んな会話を取り換した。
「落第が何だい。」純吉は胸を張り出してそんな風に云ふのが常だつた、「学問なんてやらうとさへ思へば、どんなボンクラな奴だつて一等になれるんだ。(彼はそんなことを夢にも思つたことはない。)試験などになつてビクビクするやうな男は、死んだ方が増だらう、俺は二回受けたきりで実は止めちやつたんだよ、あの気分が堪らないんだ、青ざめた学生の面を見ると浅猿《あさま》しくて仕様がないだア。」
「さうとも/\、試験なんぞに囚はれてムザ/\と若い日をつぶしてゐられるものか、俺は二三年学生時代を延して、その代りいざ社会に出た日には――」
 加藤の言葉は誇張ではなかつた。確かな自信に充ちてゐた。彼は、純吉と違つて中学の頃から秀才だつた。
「岡村、早く剃つてしまつて、俺にも一寸剃刀を借して呉れや。」純吉の背後《うしろ》から、加藤に続いて宮部も声を掛けた。
「そして、俺のは、木村、お前が剃つて呉れないか、ボールなんてやつたもので手が震えて仕様がねえや。」と加藤は不平さうに呟いた。
「加藤は反つて髭つ面の方が様子がいゝぜ、ねえ宮部?」木村は苦笑を含みながら、まじまじと加藤の顔を眺めた。
「加藤は、荒尾譲介を気取つてゐる古めかしい男なんだからなア、スケートなんておこがましいぜ。」そんなことを言ひながら宮部は、もうタオルを胸に懸けて、純吉の後ろに胡坐を
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