の起居感想を、少くとも一日の記録は罫紙五枚以上を記すべし(これは保護者の検分、捺印を要す。)等の注意を与へて、彼を去らしめた。そして稍暫くの間、彼の保護者である彼の母と、多くの注意事項に就いて会談の後、帰りがけに一寸彼の書斎を叩いて、
「しつかりやつて呉れ、俺はお前を憎んではゐないよ。」と、云つて立ち去つた。彼は、机に突ツ伏して泣いたのである。母も、その傍に来て涙を滾した。
「あの頃の、友達は……」
彼は、盃を手にした儘、仰々しい表情をしながら、そんなに思つた。……Aは? Bは? Cは? ……Gは? Hは? ……「最近、多少の交渉のあるのは、Gと、Kに過ぎないな!」Aは、法学士になつたさうだ、Bは八九年もかゝつて慶應大学の政治科を卒業したが、その年に腸チブスで死んだ。Cは、巡査になつて朝鮮に行つてゐる。Gは、理学士になつて今はアメリカ・ミシガン大学で昆虫学の研究に没頭してゐる。彼も、アメリカ行きと昆虫学の研究には、野心をもつてゐるので、Gとは一年に三回位ゐ手紙の往復はしてゐる。Kは、小田原の実家で今は専念家業のカマボコ製造業に従事してゐる。
「そして、タキノは?」と、彼は、さつき、若しもタキノが己れの日録なるものを云々などゝ思つた時と、同じやうに、さう呟いで、顔を顰めたのである。
「あなたは、さつきから何をひとりでブツブツ云つたり、首を曲げたりしてゐるのさ。」
細君は、慣れてはゐるんだが、飽くまでも尤もらしく、たとへ酔つてゐるとは云へ、変に勿体振つた身振りをしてゐる夫の様子を眺めると、堪らない疳癪が起つて、そんな風に軽蔑的な言葉を投げつけてやらずには居られなかつた。
「生活が、これでは駄目だと思つてゐるところなんだ。」
「一生そんなことばかり云つてゐれば、世話はないわ、フツ!」
「何でも好いから、俺が先きに言葉をかけないうちに、話しかけないやうにして貰はう。」
「怒らないで返事をして下さいな、――あなたは一体何……」
「黙れツ!」と、叫んだが彼は、別段憤つてゐるふうでもなかつた。情けなさうだつた。
「五月は明るい夢見時である、いつか活動の弁士がそんなことを云つたが、あれはたしかに好い文句だ。」
彼は、いつの間にか酔つ払ひの口調になつて、独りでそんなことを呟いた。――あゝ、と細君は、溜息を衝いた。が彼女は、
「何時活動などを見に行つたの?」と、多少の好奇心をもつて訊いて見た。
「中学の時分なんだ、我々は仮装隊を組織して……」
「あゝ、もう沢山/\。」
何といふつまらない男だらう――彼女は、沁々とさう思つた。
「おゝ魂よ、Make merry and Carouse, Dear soul, for all is well! ……」(テニソン)
もう駄目なのか! と彼女は、思つた。目方が軽いから運般も出来るんだが、これでも正体なくなると相当重い、毎晩あれが一仕事だ! と、彼女は思つた。それにしても稍ともすれば怪し気な英語などを叫ぶが、みつともない話だ、あした注意してやらう――などゝ思ひながら、もう斯うなつては逆へないので、「随分偉いことを御存じね、説明して下さいな。」と云つてやつた。が、幸ひだつた、彼は、うな垂れて粗野な吐息を衝いてゐるばかりだつた。(そして、タキノは……)と、彼は思つたのである。
当時彼の国の文壇には、「自己派」と称する一派があつた。それは作者自身が、自己の実生活を材にして、これを芸術化するといふところから左様な名称が出たのである。何故ならば、これはもう一つの「経験派」と違つて、同じく生活を材とするのではあるが、或る者は犀利な鑿を振ひ、また或る者は奔放な空想を加味し、或ひは鋭い理智の刀を執り、夫々「生活」を珠と変へたのである。未だこの他に「円破党」と称せらるゝ一派もあつた。これは、英吉利の昔、ジョナサンスヰフトが用ひた言葉を、或る批評家が引用したもので、人生を卵に例へて、これを割る場合には卵の円味のある方から割るべし、されば傷を負ふことなし、吾人が人生の行路は斯くや執らん、といふやうな態度の一派を総称して、「自己派」や「経験派」と同じく便宜上与へた名称である。また同じく「尖破党」と称ふ一派もあつた。これは大体に於て「円破党」の反意派なのである。
斯くの如く当時の文壇は、国創始以来の文運隆盛時代に相違なかつたのである。多くの青年は、東都の華やかな文壇に憧れて、遥々と蝟集した。――さて、タキノは、長い間故郷の実家で邪魔物扱ひにされて暮したり、そのうち、親の命令でもなく、寧ろ反対を犯して、といふて青年らしい恋をしたのでもなく、烏耶無耶に五年も前に現在の細君と結婚した、すると実家には居憎くなつて、一度は追はれるやうに伊豆熱海に逃れたり、そして今では東京で転々と居を移し、このやうな単純な日を無意に過してゐるのである。始めは作家志望ではなかつたのであるが、そんな月日を送つてゐるうちに、いつの頃からか、彼は自称「自己派」の学生になつてゐたのである。
だから彼は、あのやうに尤もらしい顔付きをして「若しもタキノが、己れの日録なるものを……」などゝいふことを、今更のやうに呟いで、顔を顰めたのである。生活は、あの[#「あの」に傍点]通りである、思想も、あの[#「あの」に傍点]通りである。だが彼は、未だ青年らしい自惚れを持つてゐて、迷夢とも知らず、「生活が――」「生活が――」などゝいふ愚痴を滾しては、己れの非も忘れて、迷夢をたどつてゐたのである。他人が見たならば、何といふ怖ろしい自惚れであることよ、「自己派」学生タキノ某の迷夢は? ――彼は、既に父を失ひ、長男であるにも関はらず寒村の家は母に与へ、今は四才の子の父で、そして三十歳である。古き諺の、空しく犬馬の年を重ねて――も、或ひはまた古への歌、「もゝちどり囀る春はものごとに、あらたまれども我はふりゆく」も、その儘彼の為には、あらたなのであつた。
四五日前、彼は小田原の旧友Kから、来月になつたら野球見物旁々上京する、その節久し振りで君の寓居を訪れたい、面倒でも電車の乗り方と地図を書いて寄して呉れ――といふ意味のハガキを貰つてゐた。彼は、Kの来訪が待ち遠しかつた。GとKのことを、先程一寸誌したが、中学の頃のあの自称正義党の連中は、長じて揃ひも揃つて親不孝者になつたが、今では大抵何かに収つた。たゞひとり自分だけは……と彼は、時々思つて暗然とした。Kは、嘗て早稲田大学に入つて野球選手になる決心で上京したのだが、未だ入学しないうちに麹町、富士見町の芸妓に恋して、あらゆる口実を設けて一年ばかりの間遊学金を取り寄せてゐたのだが、到々実家に知れて引き戻され、暫く家業に従事した。が、また土地の芸者に恋して、何回も続け様に掛取金を費消したので、勘当をうけ、ではアメリカへ行つて運動家になると高言して親から最後の旅費を貰つた。が、アメリカへは行かずに、その芸者と箱根へ行つた。そのうちに、その芸者とはどうしてか、別れて了ひ、今度こそは「改心」――全くKはこの言葉を何度使つたことか――すると泣いて親に頼んだ。そして店に坐つた。が、また土地の別の芸者に熱烈な恋をして、掛取金を瞞着した。そしてまた勘当をうけ、女は寄所の町へ行つてしまひ、丁度その頃タキノも家を追はれて熱海に居たので、夏中其処に来てゐた。熱海で、日射病にかゝり、それをきつかけにして実家に戻つた、が、また掛取金を着服して、別の芸妓に通ひ詰め、今度こそは五年の勘当を申し渡されたのだ、が、丁度その翌日が大正の大地震だつた。火災が起つて町は全滅した。――Kの家は、非常な老舗なのだが地震後は、家運頓に衰へて、嘗て十数人の職人が常に店先で花々しく製造に従事してゐたにも係はらず、何時か彼が一度前を通つた時に見たら、Kが、三四人の職人と一処になつて大俎の前に立つて、専念勇ましい音頭を執りながら、巧みにカマボコを叩いてゐた。
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(作者註。「カマボコ」とは、一種の食料品にして、相模小田原町、古来の名産なり。これが製造に当りては、長さ二間余もあらん大俎の上に材を置き、二つの庖丁様の撥を両手に握りたる数名の職人が、掛声そろへて一勢にこれを打つなり。その音、恰も木琴(Xylophone)の弾奏を聴くが如く面白し。)
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三年前、熱海に居た頃も、彼の生活も思想も今と変るところはなかつた。――Kのハガキで彼は、一寸そんな回想に耽つたりして、沁々と自分が「自己派」に属することを喞つた。彼は「スプリングコート」といふ旧作の中に、僅かばかり当時の模様を挿入したことがあるが、それはKが訪れて、いくらか生活が活動したので、その部分を、小説にする目的で先に日録を作つたのであるが、最初計画した小説は失敗したので、折角の日録も不用になつてゐたが、後に「スプリングコート」の時に一二個所引用した。その日録のあまりが、十四五枚未だに彼の筐底に残つてゐた。この日録は、そんな目的だつたから、小学や中学のそれのやうではなかつたが、無味乾燥は免れなかつた。
(あまり黒くなつたので人相が変つた、と云はれた。鬚を剃らうとして鏡の前に座り、顔を眺めたら自分ながら「なる程!」と思はれた。碌に泳げるのでもなく、また海辺が面白くて出掛けるのでもない。Kに誘はれて厭々行くのだ、たゞ部屋にごろごろしてゐるよりは増だから。――だが、さもさも愉快さうにはしやぎ廻る男女を見るのは適はない、誇張した動作は、見る者に不快を与へる。)
(もう、八月も半ばである、六月に一度東京に出かけて胃腸を痛めたのが、未だ全快しないやうだ。東京を思ひ出すと眩暈がする、その癖田舎の淋しさには、いつになつても慣れさうもない。Kは、今日真鶴まで泳いで船で帰つて来た。少しでも凝ツとしてゐると親爺の怖しい顔が浮んでやりきれないから、起きてゐる間は滅茶苦茶に運動するんだ、とKは云ふ。夜になるとKは倒れるまで酒を呑む、一寸心配。)
(ロシヤとかでは、雪中自殺法といふのがあるさうだ。泥酔した揚句、雪の中を漫然と歩き回つてゐると非常に快い眠気が襲つて、眠るとその儘安らかに永久に醒めないのださうだ、多くの自殺法のうちこれが最も楽な方法なさうだ。海の上でもそんな芸当は出来ないかな? などと笑つてKが云つた。ロシヤの話なんて嘘に違ひない。厭なことを云ふKだ。)
(Kが、気分が悪いと云つて起きなかつた。額に手をあてゝ見ると酷く熱い。驚いて計つて見ると三十九度強。慌てゝ外へ飛び出す、A院へ行つたが留守、他に知合ひなし、出たらめに三軒の医院へ頼んだ、俥が街を走つてゐる時、何のわけもなく、ふつと立ちあがり、その儘暫らく走り、往来の人に笑はれて始めて気附いた。二人の医者が来て呉れた。日射病、大腸カタル、三ツの氷嚢で頭と胸を冷す。四十一度まで昇つた。自分は病気の智識が何もなく、あまり病気になつたことがないので多くの不便を感じた。徹夜。徹夜は得意だから何の苦もない。)
(Kは家へ知らせてくれ、といふ。もうその必要はないのだが、どうしても知らせてくれと云ふ、Kが知つてゐる看護婦を頼みたいといふ。郵便局へ行つてKの家へ電話をかける。Kの母の声はふるへてゐやた、此方が心配させぬやうにワザと他易く云つてゐるのだと思つたらしい。少しそれもあつたが、Kの母は敏感すぎた。あしたの朝、看護婦と二人で行くと云つた。看護婦だけで好いんだけれど、遊び旁々のつもりで来るならいらつしやい、と附け加へずには居られなかつた。あんた等のところへ遊びに行く馬鹿はない、とKの母は云つた。)
(Kの母は午前中に来た。前の日に彼女が出した手紙が、彼女が夕方、丁度ぼんやり門口に立つて海を眺めてゐたところに着いて、彼女は自身で出した手紙を自身で受けとつた、もう先に来てしまつたことだつたから、と、此方を向いて彼女はテレ、帯の間に秘さうとしたが、一寸見ると宛名は自分だつたので、自分はふざけて無理に取りあげて読んだ。おとゝひから、自分達は初めて笑つた。随分長い口語体の手紙だつた。手紙を読むと、自分の胸は、一杯になつた。あの子を生んだ哀しい私は――と書いてあつた。
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