らない――斯う母は云つたのであるが、彼は、時々母が日記をしらべる為か、書けば屹度誰かに読まれるやうな気がして、多少の感想はあつても書くのは厭な気がして、例へば、朝どんなに皆なに起されて、不精無精に起き出でゝ、口惜し紛れにおぢいさんと喧嘩をした……さういふ種類のことでも書いて置かなければいけない、と母に注意されるのであつたが、彼は如何しても恥しいことを書くのは厭だつた、勉強しない日でも、必ず勉強したと書くのであつた。毎日見られるわけではないのだから、多少の嘘はごまかしが利くだらう、八時に起きて危く学校が遅刻になりかゝつた時でも、七時起床と書いた、彼は「日記」に依つて、ごまかしを強要された、と後年思つたことがあつた。正月半ばまで書いた彼の日記帳が数冊本箱の中に、つい二三年前まで彼の故郷の家に残つてゐたが、一度彼は一寸それを開いて見たこともあつたが、幼時を懐しむ感傷などはそれこそ毛程も起らず、その無味乾燥な文章を見て、幼時の表裏ある心が見え透いて、反つて背中がムズムズするばかりで、煤掃きの時火中に投じてしまつたことがある。
 たつた一個所、斯んな文章が眼についた。「――今日ハ小峯公園ニケイ馬ガアル。学校カラ帰ルト河井ノオヂサンガ清チヤント一シヨニ来テヰテ、ケイ馬ヲ見ニ行ツタ、ケイ馬ハ面白イ、馬場ノムカフガワニ馬ガ行ツタ時ハ、オモチヤノヤウデアンナニヨクカケルノヲホシイト思ツタガ、ソバニクルト馬ノイキガキカン車ノ煙突ノヤウニハゲシク、馬乗リノ顔モオソロシカツタ、大ヘンヒドイ勢ヒデアル、落チテアノ馬ノ脚ニカヽツタラタマラナイト思ツタ、ダケドマタムカフニナルト可愛イオモチヤニナルノデ、何デカ面白カツタ、帰リニ清チヤント坂道ノトコロデケイ馬ゴツコヲヤツタガ雪駄ヲハイテヰタノデマケテシマツタ、清チヤンハカケナガラ勇マシイカケ声ヲシテヰタ、僕モ汗ガナガレタリ、イキガハゲシクナツタリ、ホコリガヒドクテ苦シカツタガ、遠クデ笑ヒナガラ見テヰル河井ノオヂサンニハ、コノハゲシサハワカルマイト思ツタ……」
 また彼は、中学に入ると暑中休暇日誌なるものを課せられて、毎夏辟易した。たしか四年生の夏だつたか。その級の監督受持教師は松岡先生といふ人の好い老人で、数学の担任だつたが、普通の数学教師と違つて、稍ともすれば古代ギリシヤや東方諸国の聖哲の抄論を説き聞かせ、人生悟道の研究を洩すのが好きだつた。――彼が、怠けることを誇るといふありふれた悪童の典型的な頃だつた。「チエツ、日記なんて誰がつけるもんか、馬鹿々々しい、あんなものは二学期が始まる二三日前に、誰かの処へ行つて天気のことだけ訊いて来て、あとは皆な出たら目を書けば好いんだよ。」
 彼は、斯んなことを得々と吹聴して、実際学校へ出す日誌には決して誌すことの出来ない多くの日を過した。それは県立中学で、非常に規律が厳しかつた。そば屋或ひは洋食屋等の飲食店に立入つたことが見つかれば五日間の停学、袴を着けないで外出すると一日の謹慎、頭髪を三分刈にしたりもみあげを短く切れば体操教員から拳固で一つ擲られ、自転車に乗ると始末書を徴発され、新しい文学書を翻けば修身点を引かれ、艶書は退学、遊廓散歩は無期停学、洋服で下駄をはくとこれはまた擲られ、流行歌を吟ずると保証人が呼び出され、ハモニカ、バイオリン等を弾奏すると、艶書を書きはしないかといふ嫌疑を受け、劇場出入は三日間の停学、運動シヤツにマークをつけると運動禁止、好天気の時に足駄をはくと、雨の日に跣足の登校を命ぜられ、夜間外出は夏期に限り規定の服装の下に海岸散歩七時まで許可、但し祭礼の場合は神楽見物に限り九時まで許可――以上は厳則の一端に過ぎない。艶書、バイオリン弾奏、文学書閲読、遊廓散歩等の悪事を発いて制裁を加へる一味の不良正義党が学生間に自づと組織されて、彼はその党の一員だつたが、彼等のその他の生活は悉く当局の忌諱に触れることばかりで、その方面では彼は煽動的張本人であつた。――だから学校に差し出すべき日誌に録すべき日は、一日もなかつたのだ。
 第二学期が始まる四五日前に彼は、忠実な学生を訪れて、厭がるのも関はずその日録を奪つて五十日間の「天気」を写しとつたのである。そして天候に準じて、夫々の日の記録を捏造しなければならなかつたのである――その頃から頭も筆も到つて自由でなかつた彼は、その捏造記録の困難と云つたら、たしかに地獄の苦し味だつた。と云つて他人の日誌から丹念に「天気」を写し取る程の汲々性で、正直な記録を作成して甘んじて当局の罰を負ふたならば、自分も寧ろ朗らかになり、党員等からも推賞されるに相違なかつたのであるが、彼はまた他の党員達と同じく姑息だつたのである。
 天気を写し取るといふのは、彼の発案だつた。彼がこれを提言した時、一同の者は此上もなく賞讚した。そして各々彼の写本の天気を更に模写して、忽ち豊かな架空日誌を作成したのである。――Aは、様々な材料を集めて、写真入りの日本アルプス登山記を作つた、Bは、函山天幕生活記を捏造した、Cは、漁船に同乗して大島を巡遊するの記、Dは、丹沢山に昆虫採集に赴き山猿に出遇ふの記、フランクリン自叙伝、ナポレオン言行録、ブルターク英雄伝等々の書名ばかりを無暗と列記して、暑中五十日石垣山麓に潜んで、我また英雄を夢見るの記を縷々と叙したEとか、月下熱海街道を駆足して、帰途は一路小田原御幸ヶ浜まで遠泳したといふ「マラソンと遠泳の記」のFとか、Gは、阿未利神社に於て断食七日の記、また、俺は道了山中で狸と格闘するの記を書かうか、などゝ云ひ出して、それは余り嘘らしくてバレてしまふぞ、と慴されて頭をかいて引きさがつたHもあつた。
 だが彼には、一つもさういふ名案が浮ばなかつた。そしてやつと書きあげた何日分は、それが若し真実であつたならば、修身点は勿論甲上、級長の位置をも奪ふに足るべき温良、忠実な記を作成したのである。一字書くと、松岡先生の顔が浮び、一行すゝむと怖ろしい生徒監の姿が見えたり、そして自分は母に対して何といふ酷い不孝者なのだらう、などゝ思つて情けなくなつたり、無味な虚文は立所に行き詰つたりしながら、しどろもどろに、苦し紛れに背すじに汗を流して書いたのである。――如何にも家庭では、保護者の言に忠実で、専念修養を怠らぬ素振りを多く香はせたのであるが、それでも同じく捏造であるにせよ、そんな空想は思ひも及ばないのであるが、丹沢山で山猿に出遇ふの記等々のやうな柄でもない望みよりは、これは悉く自分の生活の極端な反意語を叙せば足るのであつたから、空々しい想像よりは楽であり、自分に近い方便だつた。
 で一日一日の違ひと云へば、で仕方がなく、七時起床と誌した翌日は(校則では五時起床でなければならなかつた、だが、さう五時五時とせずに、稀には七時も好いだらう。)――五時三十分としたり、またその次には正五時起床が三四日も続き、そしてまた――昨日は遠泳を行ひたる為に、今朝は思はず寝過して、ハツと気付いて枕頭の眼醒時計を見れば早や七時十分過ぎ、前庭に旭光みなぎる、我は勢ひ好く飛び起き、井戸側に走り常の如く冷水浴五度、後午近くまで数学を解きたり、されど七時過ぎの冷水浴は、水温生ぬるく心神に左まで効果なきことを悟りたれば、明朝よりは、断乎四時起床を決心せり――などゝ誌し、翌日は麗々と正に――午前四時、眼醒時計の快音と共に離床、夜来の雨未だ晴れず、函山は遠く暮靄の彼方に没し、四囲寂として声なし、たゞ雨滴の音のみ我れに何事をか囁くに似たり、我れ思はず応と快哉を叫び、俄然釣籠を執りて冷浴十度、この日終日精神爽かにして参考書出題の幾何学十余題を解きたり――などゝいふ風に、幾種かの日録を作成した、だが五十日間を、夫々捏造する程の困難には打ち勝てなかつた。で、幾つかのさういふ記録を天候に準じて都合好く配列し、その間に、凡庸に規則に当てはまつた、例へば――五時起床、冷浴、機械体操及び軍用ラツパの練習後、午近くまで宿題を検べ、午後水泳に赴く、夕食後一時間海岸散歩、六時半帰宅、八時就寝――といふやうなことを書き、翌日は――前日に同じ、とか――前日の行動と同一なりき――とかといふ風に誌して、それが殆ど全日録の三分の一を占めたのである。
 新学期になると間もなく、彼等(自称正義党員)は生徒監の許に呼ばれた。その年から「夏期休暇中、学生行動調査録」といふ調書が出来てゐたのであつた。生徒監数名が当番を定めて、日夜市中を探偵し、その上秘かに父兄を尋ねて精密な調査を執つてゐたのだ。尤も彼等一党は常に当局の注意人物なのだつたから、この調査録は彼等の為になされたと云つても好かつた程、それ程彼等の行動のみが詳しく調べてあつた。彼の欄などには――休暇中朝食を執りたること無き由、とか、C、D、E、F等と巧みなる変装を凝らして、活動常設電気館に数回出入(月日等々)、Cは印絆纏、鳥打ち帽子、Dは口鬚、眼鏡、Eは某大学生を装ひ、タキノは、漁夫の祝着なるマヒハヒを着し頬かむりをなし、Fは自働車運転手等云々、とか、馬食会なるものを組織し、順次、父兄の留守宅に集会し深更まで喧噪を極め、或ひは(×月×日夜)西洋料理店万歳軒に集合、(×月×日夜)そば店盛々庵、(×月×日夜)汁粉店松月の奥座敷に集合し、当店職業用の今川焼器を各自使用し、乱脈を極め当主人迷惑す、(×月×日夜)自転車数台、サイドカー附自働自転車一台を駆りて字栗橋街道に至り附近の畑より甘藷、西瓜等を盗み、深更海岸に屯ろしてビールの満を引き、馬食会万歳を連呼せり云々、とか、彼等の日誌は、新学期開始前三日、天候のみを某学生の日誌より写し、××家の空家に集合し徹宵夫々相謀りて作成せるもの也、などゝいふことまで記述してあつた。これを突き付けられて彼等は、唖然とした。気の小さいHは卒倒した。彼等は凡て二週間の停学の上、修身点を零にされた。禁足中、受持監督教師が一度宛家庭訪問に来るのであつた。彼のところには松岡先生が来た。先生は、笑ひながら、
「前日に同じは簡単で好かつたな!」と、云つた。「此の頃こそ前日に同じなのぢやないかね。」
「…………」
「と、なるかも知れんが、考へなければならんのは其処なのぢや、解るかね?」
「はア……」
「普賢経に、六根清浄ヲ楽ミ得ル者当ニ是ノ観ヲ学ブベシとある、ギリシヤの昔から、即ち万物流転の説が立証されてゐる……従令それが石の存在であらうとも刻々に、その周囲に於ては、大気は移る、雲は飛ぶ、霹靂一閃、……風は吹かずとも木の葉は散る……一刻と一刻の相違は非常なものだ、まして我等は石には非ず、眼あり、耳あり、鼻あり、身あり、舌あり、意あり、即ち六根!」
 今迄温顔をたゝへてゐた先生の容貌は、この時屹となつて、
「喜怒相見眼ナリ。」と云つて、人差指で彼の眉を突いた。相当力が入つてゐて、端座をしてゐる彼の体は、先生の指に伴れて一寸後ろに反り、また戻つた。と同時に先生は、
「聴審相続耳ナリ。」と云つて、両方の指の先で彼の耳をつまんで引きあげた。彼は、思はず顔を顰めて、尻を浮せた。
「愛憎香臭鼻ナリ。」と、厳かに続けた先生は、稍興奮のかたちでギユツと彼の鼻をつまんだ。――そして今度は口早く、
「嘗味苦甘舌ナリ。」と、云つて彼の口唇を、たぐるやうに引ツ張つた。彼は、また思はずウツ! と、喉を鳴らし、女の子供が意地悪るの為に憎々顔をする時のやうに頤が前に突きでたが、勿論彼の辛さとテレ臭さと、痴呆的な困惑の表情は、釣針に懸つた魚に違ひなかつた。二ツ三ツ呼吸をつく程の間、先生は、その儘指先きを離さなかつたが(先生の指が煙草臭さかつた。)忽ち、えツ! と肚のあたりに力を込めて、彼の頤を突き反し、
「常審思量意ナリ。」と、怒鳴るやうに云ひ放つたかと見ると、ヤツ! と叫んで彼の胸をドンと打つた。まことにこの時の先生の早業は、一刻前の先生の言葉通り、霹靂一閃で、堂に入つた気合術だつた。
 そこで先生は、程の好い温顔に立ち反つて、お前も馬鹿ではなからうから、これ以上私としては何も云ふことはない、謹慎十四日、静思黙考して、冷浴の時はひたすら六根清浄を唱へ、審さに十四日間
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