貧しき日録
牧野信一

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(例)いろ/\
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 こゝは首都の郊外である。
 タキノが、突然――(といふのはタキノ自身にとつて、そして一年程前に、これも突然主人を亡くして、こゝから二十里あまり離れてゐる海辺の寒村に彼のたつたひとりの小さな弟と二人で佗しく暮してゐたタキノの母親にとつての副詞に過ぎないことを断つて置かう。彼女は、その長男であるタキノの帰郷を予期してゐたのだ。タキノ自身も、こゝに移る二日前までは、そのつもりだつた。古き世から伝はる所謂「帰れる蕩児」になることに、反つて安易を感じてゐたのである。……が、それがどうして斯うなつたかの説明は省くつもりだ。こゝでは一寸この副詞の範囲を明らかにして置きたかつたまでのことだ。)――と、細君と一幼児と、荷物自働車一台とで、二三ヶ月住んだ芝・高輪から移つて来て、もう三十日あまり経つたのである。
 春になつてゐたが、まだ寒かつた。タキノは、こゝに来て以来、一日に一度宛入浴に出かける以外、土を踏むことはなかつた。昼、十二時過ぎに眼を醒し、ぽかんとして、またうとうとゝ相当快く眠り、しばらくたつて寝床から這ひ出し、湯に出かけ、さつぱりして帰つて来ると、灯りが点いてゐて、夕餉の膳に向ふ、より他に何もなかつた。想ふこともなく、事件もなく、日々は左様に、奏楽に適さない玩具の笛ですら三つ位ひの音色はもつてゐる、土細工の鳩笛の音は単調ではあるが一脈の哀音をもつてゐる、が彼の胸にも頭にも喉にも何の響きはなかつた。これで彼は、さまで倦怠を感じてゐるわけでもなく、別段深刻な憂鬱を宿してゐるわけでもなく、といふて勿論愉快でもなく、云はゞ、朝何時に起き出て、夕べは十分おきに到着する電車でも毎夕必ず同じ電車で帰り、夕餉を済すと間もなく高鼾きで眠つてしまふ……あまり位ゐの好くない呑気な道具のやうな勤人と大差はないのである。
 一度、弟の代筆で寒村の母から、近火を見舞ふ手紙を貰つた。まだ彼のところには新聞が配達されてゐなかつたので、その手紙で初めて市外・日暮里に大火があつたことを知つた。彼は、そこに友達があるので、細君に命じて新聞を買はせにやつた。細君は、電車に乗つて何処とかまで行つて漸く四五日分の新聞を集めて帰つて来た。大火は、友達の家とは方面違ひだつた。日暮里といふのは、仮りに首都を円とすれば、彼の此処が、円の中心をよぎる直線の一端で、他の一端が其処なのである。母は、同じ市外である為に、其処も此処も近処と思つたのである。……彼の幼時、彼の父がアメリカ・ボストンにゐた頃、アメリカ・サンフランシスコに大地震が起つたことが日本の新聞に報ぜられた。その時のことを彼は、二十何年後の今でも好く覚えてゐる。彼は、その時の無智な祖父母を、今でも笑ふことは出来ない。縁側の日向で(時候は忘れたが、何だか冬のやうな気がする)、新聞を眺めてゐた祖父が、
「ヤツ!」と、叫んだ。常々祖父は、安政の地震の怖しさを語つたことがある。その頃アメリカの地理に詳しかつた母がボストンとサンフランシスコとは、日本にして見れば何処から何処位ゐの距離があるなどゝいふことを説明しても、容易に祖父は承知しなかつた。祖父は体格が彼に似て、痩つぽちで、そして有名な憶病者だつた。十六歳の時、御維新の時、箱根の関所をかため、山崎の合戦には刀傷をうけたなどゝいふことを得々として彼に物語つたが、彼は今だにそれは法螺だと思つてゐる。
「なにしろ地つゞきぢやアなア!」
 祖父が斯んな溜息を洩したのを、彼は覚えてゐる。
「だつて安政の地震は関東だけだつたんでせう?」
「ともかく電報を打たう……毛唐人の国のことは解らないからな!」
 祖父と同じやうに彼は、写真でしか見知らない父の安否を気遣つた。
 近火見舞の手紙を受け取つた日に彼は、そんな古いことを一寸思ひ出したり、その手紙を書く前の母と弟の会話などを想像したりした。
 タキノは、何処に住んでも、生れ故郷であつても、己れの現住所を賞めないのが癖だつたが、こんどの所は今迄住んだ何処よりも嫌ひだ、と云つた。こゝに移つた第一日に湯に行つた時に、あたりを眺め、野原に点在する不思議な家屋を眺め、一体あゝいふ家には何んな人々が、何んな風に住んでゐるのか? などゝ訝しがつたのである。西洋人のやうに腕を取り合つて恥づる気色もなく歩いて行く、それでもう相当の年輩の一組の男女が居た。また西洋風の建築を、如何したら最も手軽に、そして見かけだけは飽くまでも高踏的に……などゝ熱心に研究しながら歩いて行く、丁度彼位ゐの年輩の二人の男もあつた。――嫌ひだなどゝ、自慢さうに云つたが、たつたそれつぱかしの怪し気な観察なのか! ――そして近いうちにまた移転する先きを漠然と心に描いた。彼が移転すると、その移転先きを詳しく母に話すのが今迄の習慣だつたが、今度はそれを彼女に何も相談しなかつたし、ハガキで通知(それは今度が始めてだつたが。)した時も、東京府下何々郡何々村大字何々×××番地と誌すのが面倒なばかりでなく、細君に代筆させたのである。同じ差出し人である彼が、若し一日に百度手紙を出す場合があつたとしても、その受信人である彼の母は、彼の現住所がそこの役場の人民録に誌されてゐる通りの住所番地をいちいち明記しないと、その次に彼が帰郷した時、封を切らずに彼に返済するのであつた。だから彼は封書は滅多に出したことはなかつたが、ハガキでもさういふ省略をすると、それを封筒に入れて返送して寄すのである、返送されたつてハガキなら当の目的は達してゐるに違ひないだらうし、稀に彼は彼女を厭がらせる為にワザと住所を忘れて Your's obedient son などゝ書き送ることなどあつた。だから今では返送もして寄越さなかつた。――それでも彼は、時々自分の為に文章を草する場合があつて、その中に現住所を用ひる場合になると、それが何んなに無駄で、反つて目触りになるものと承知でゐながら、いちいち例へば、相州小田原町だとか、伊豆熱海町だとか、牛込何々町だとか、下谷区上野とかといふやうにその個有地名を誌さないと、どうも落つけなかつた。往々他の小説に見うける如くA町とかB村とか或ひはまた単に或る村とか、といふ風に、さう気軽に扱へなかつた。想像力が貧弱な為も確かだつたが、母のあの古風な教育の影響が、こんな所まで響いてゐるかと思つて苦笑したり、そんなに余外な要でもない地名などを仰々しく書いたりなどしたら、見る人から笑はれるだらう、厭味にさへ思はれるだらうなどゝ思つたこともあつた。
 二三日前彼は、今度若しこの町名に出遇ふ場合があつたら今度こそは気軽に、一番C町とやつてやらうか、頭文字をとつて、あの阿母にさへ Your's obedient son などとやれる程図太くなつた俺なんだから――そんな馬鹿なことを思つた。……別に休校したわけでもないのに普通より余外な年月を費して彼は、嘗て或る私立大学の文科を修業したのであるが、そんなに長くゐた癖に到々そこでは一人の友達もなく、稀に往来などで旧同級文科生などに出遇ふと、神経的な虫唾が走つたり、向方も向方で、あの稀代な劣等生は未だ生きてゐたのかといふ顔をするし、――結局この町にも長くゐたならば、丁度あの文科同級生と自分との関係になるに違ひない――となど彼は思ひもした。嫌ひだとか何とか云ひながら、それに引込まれる烏耶無耶性を彼は多分に所持してゐた。

(……若しもタキノが、己れの日録なるものをつくらなければならなかつたならば、彼はその第一日以後をどんな風に綴らなければならないであらうか? ……)
 未だ外の景色が明るかつた時分から、ひとりでチビチビと酒盃を傾けてゐたタキノは、もう波に浮んでゐる程の心地になつて、ふつと自分で自分のことをそんな風に呼び棄てにした。――そして、何を云つてゐるのか? と、セヽラ笑つた、ひとりで――。
(ねばならなければ……ならなければならない……)
 そんな馬鹿気た語呂だけが、安ツぽい玩具の滑りの悪い車みたいに舌の上をころがつた。
(……大変云ひ憎い、何とかといふ文句を、三辺も四辺も息も切らずに唱へる……子供の時分にそんな喋舌り競走をしたことがあるね! えゝと? 何んな文句だつたかな? すつかり忘れてしまつたな! だが俺は、たしかその遊びでは何時でも失敗者だつたな! さつぱり舌が回らなかつたよ……それにしても一つ位ゐあの唱へ文句を覚えてゐさうなものだが、チヨッ! 癪だな! 今一寸試して見たいんだがな? あゝいふ業は、子供と大人と何方が優れてゐるものかしら! それもやつぱり天成の一つかな? 子供の時分出来なかつた遊びは……勿論ぢやないか、いつそ反つて無器用になつてゐる位ゐのものなんだらう。)
「チヨッ」と、彼は舌を鳴した。それ位ゐのことで彼は、厭な気がしたのだ。
 同じ日ばかり続くのである、即ち昼、十二時過ぎに眼を醒し、ぽかんとして、またうとうとゝ眠り、しばらくたつて寝床から逼ひ出し、入浴に出かけ、帰つて来ると灯りが点いてゐて、夕餉の膳に向ふのだ――忽ち酒に酔つてしまふ、如何して寝床に入つたか覚えはないのだ、たゞ翌日、即ち昼、十二時過ぎにぴかりと眼を開くと、たしかに其処に、英文和訳の直訳体の説明句の通りに、彼は其処に自分の存在を発見するのだ。――云ふまでもなく彼は、酔つてどんなことを考へ、どんなことを喋舌り、どんな動作を演じたか、悉く忘れてゐる。覚えてゐることは、十二時過ぎに眼を醒したことと、湯に行つたことゝ、喧ましい! と叫んで子供を叱つたことゝ、そして毎日決つて彼がさう叫ぶと、彼の細君が、喧ましいもないもんだ、そんな偉さうなことを云ふ位ゐなら、もつと大きな家を借りたら好さゝうなものなのに、とセヽラ笑つて彼の機嫌を損じることゝ、ムッとして夕餉の膳に向ふ、までのことである。酔つての上の行動は悉く忘れたといふのは、通俗的には詭弁とされてゐるが、彼のも多少のそれはあつたかも知れないが、大体は晩酌などゝいふ柄ではなく、云はゞ落第書生のヤケ飲みのかたちで、生で幼稚で、無茶苦茶だつたから、仕方がないのだ。
(……若しもタキノが……)
 彼は、また思はず同じことを呟いで、思はず苦笑を洩したのである。――では彼は、十二時過ぎに起床して、夕餉の膳に坐るまでの間に如何なることを考へるかと云へば、この第一節に記述した何行かで片附く痴語に過ぎないし、それも根底のあることではないから一時間もすれば忘れてゐる。――今度小説を書く場合にはC町としよう、などゝ呟きもしたが、何の事件もないし、生活は斯の通り簡単で結局夥しく規律的であるから、全く彼が己れの日録なるものをつくるとすれば、第一日は、小学生のそれのやうに、何時に起床し、湯に行き、帰りて、晩飯を済して寝たり――と、それで全部で続く日は、雲天とか、晴天とか、雨天とかの変りを誌せば誌し、他は凡て、前日に同じ、前日に同じ、とするより他はないのだ。これが若し天候の加減で、いろ/\気分が変り、晴れた日には快活になり、雨の日には落つき、風の日には如何かといふ心でもあれば、自づと感想にも色彩が出るであらうが、彼はそんなことには何の影響も享けないのである。
 彼は、幼年時代から「日記」には反感を持つてゐた。小学校にあがると同時に彼の母は、彼に日記を誌すことを命じた。毎日、天候といふ欄に、曇リ後晴レとか、終日快晴とか、午後ニ至リテ風吹キとか、天候の具合からしてたゞ、晴れとか雨とかでは母が許さなかつたので、これを誌すだけでも相当の退屈を味つた。
「六時ニ起キ、顔ヲ洗ヒ飯ヲタベ、七時半ニ学校へ行キ、帰リテ夕方マデ友トアソビ、夜勉強シテ、ネタリ。」
 日記は他人《ひと》に見せる為に書くのではない、大きくなつて自分で読んで見るといろ/\得るところがあるのだ、だから正直に出来るだけ詳しく書いておかなければな
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