栫X自分の為に文章を草する場合があつて、その中に現住所を用ひる場合になると、それが何んなに無駄で、反つて目触りになるものと承知でゐながら、いちいち例へば、相州小田原町だとか、伊豆熱海町だとか、牛込何々町だとか、下谷区上野とかといふやうにその個有地名を誌さないと、どうも落つけなかつた。往々他の小説に見うける如くA町とかB村とか或ひはまた単に或る村とか、といふ風に、さう気軽に扱へなかつた。想像力が貧弱な為も確かだつたが、母のあの古風な教育の影響が、こんな所まで響いてゐるかと思つて苦笑したり、そんなに余外な要でもない地名などを仰々しく書いたりなどしたら、見る人から笑はれるだらう、厭味にさへ思はれるだらうなどゝ思つたこともあつた。
二三日前彼は、今度若しこの町名に出遇ふ場合があつたら今度こそは気軽に、一番C町とやつてやらうか、頭文字をとつて、あの阿母にさへ Your's obedient son などとやれる程図太くなつた俺なんだから――そんな馬鹿なことを思つた。……別に休校したわけでもないのに普通より余外な年月を費して彼は、嘗て或る私立大学の文科を修業したのであるが、そんなに長くゐた癖に到々
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