。……だが彼女は、S・タキノの母も、十年余の夫の留居を守つて、常にさういふことを思つたことを知らない。彼女は、此頃変に夫が家に落つかず(どういふわけか彼女は嫉妬を感じない、たゞ変だつた。)、突拍子もない寝言を叫んだり、聞きとれぬ位ゐな独り言を隣室で呟いだりすることを、ふつと思つて、神経衰弱なのか知ら! といふ気がした。と同時に、黒い翼で頭を打たれて――奇妙に不吉な幻を見てしまつた。――いや、これは自分の神経が変になつてゐるんだ、と彼女は慌てゝ、力なくセセラ笑つて見た……。
翌晩彼は、遅く帰つて来た。相当酔つてゐるらしかつたが、陰鬱な顔をして、大声も出さず、そして盃を取りあげた。
「阿母と一処に暮したい。」
彼は、そんなことを云つた。誇張した動作は見る者に不愉快を与へる――そんなことを熱海日誌に書いたことなどを彼は思ひ出したりした。
「田舎へ帰つて、ほんとうに勉強しようかしら! 第一此方へ居ると阿母のことを考へなければ、ならないといふことが……ねばならない、ならなければならない、must be といふことは、その種類の如何なるを問はず、負担である。負担は厭だ、虫の好い寝言だと云はれて
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