ことしか出来ない。彼がまたこの性質をその儘享けついで、文筆の士でありながら、隣りの犬に食ひつかれて如何程口惜しい思ひがあつても、議論をもつて抗議する術を知らなかつた。後日彼の父は、あの一票の投票者を探して、友達になりたいといふことを彼に告げたことがある。だが、その友達とは遇はずに死んだ。――彼が、今父から享けついで、考へることは「その友達」のこと位ゐのものである。そんなに彼は、父に似て、つまり資金を投じて失敗する事業でなければ、他に何の能もないのだが、父がさういふ事業のみに没頭したので、今は彼の家は貧乏になつて、父の如き生活は営めなくなつたのである。彼は、あの通り幼時から不得意であつた「貧しき日録」に就いて、考へるより他に日の送りやうもなくなつた。そして此頃の日録は、五六行誌せば足りるのである。
或る日彼は、洋服を着て、ポケツトにオペラ・グラスなどを入れて外出した。――細君は、清々とした。夜おそく、非常に酔つて帰つて来た。翌日、また彼は、今度は和服を着て出かけた。その晩は、帰らなかつた。電車の着く毎に、駅夫の呼ぶ声が聞えたりするのが一寸厭だつたが、細君は久し振りで沁々と読書なども出
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