翌日出かけるのも忘れて、そんな手紙を思はず書いたKの母の心は解る。)
 彼は、此間そんなものを取り出して見たが、わけもなく破棄した。これでは松岡先生に、眼を突かれ、鼻をとられた当時から一歩も出てゐない――そんな気がしたらしかつた。だが現在は、この郊外の日々は、如何程先生から酷く、耳を釣られ、口唇を引かれ、胸を叩かれても「前日に同じ」より他に無いのである。
 また彼は、血統を思ふこともあつた。父は、一生何の定職もなく、その癖何の落着きもなく慌忙のうちに人生の幕を閉ぢた人である。父は、常々「俺は了見が世界的なんだ、俺は、云はゞコスモポリタンだ。」などといふことを、酒などに酔つて高言する程の、一種の臆病者で、その言説が明日まで残ることはなかつた。一年程前に死んだのであるが、彼にとつてはもう古い夢のやうで、強ひて思へば、何となく笑ひたいやうな気持(それは丁度、その父がまた先代を笑つてゐたやうに)になる位ひのもので、子に伝ふべき遺業も言説も、また子が、どんな意味に於ても、子として他人に向つて語り得る材もなかつた。だから彼は、祖先伝来のカマボコ製造業を享けついで、今は専念俎を打つてゐられるKなどが
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