。覚えてゐることは、十二時過ぎに眼を醒したことと、湯に行つたことゝ、喧ましい! と叫んで子供を叱つたことゝ、そして毎日決つて彼がさう叫ぶと、彼の細君が、喧ましいもないもんだ、そんな偉さうなことを云ふ位ゐなら、もつと大きな家を借りたら好さゝうなものなのに、とセヽラ笑つて彼の機嫌を損じることゝ、ムッとして夕餉の膳に向ふ、までのことである。酔つての上の行動は悉く忘れたといふのは、通俗的には詭弁とされてゐるが、彼のも多少のそれはあつたかも知れないが、大体は晩酌などゝいふ柄ではなく、云はゞ落第書生のヤケ飲みのかたちで、生で幼稚で、無茶苦茶だつたから、仕方がないのだ。
(……若しもタキノが……)
彼は、また思はず同じことを呟いで、思はず苦笑を洩したのである。――では彼は、十二時過ぎに起床して、夕餉の膳に坐るまでの間に如何なることを考へるかと云へば、この第一節に記述した何行かで片附く痴語に過ぎないし、それも根底のあることではないから一時間もすれば忘れてゐる。――今度小説を書く場合にはC町としよう、などゝ呟きもしたが、何の事件もないし、生活は斯の通り簡単で結局夥しく規律的であるから、全く彼が己れの日録なるものをつくるとすれば、第一日は、小学生のそれのやうに、何時に起床し、湯に行き、帰りて、晩飯を済して寝たり――と、それで全部で続く日は、雲天とか、晴天とか、雨天とかの変りを誌せば誌し、他は凡て、前日に同じ、前日に同じ、とするより他はないのだ。これが若し天候の加減で、いろ/\気分が変り、晴れた日には快活になり、雨の日には落つき、風の日には如何かといふ心でもあれば、自づと感想にも色彩が出るであらうが、彼はそんなことには何の影響も享けないのである。
彼は、幼年時代から「日記」には反感を持つてゐた。小学校にあがると同時に彼の母は、彼に日記を誌すことを命じた。毎日、天候といふ欄に、曇リ後晴レとか、終日快晴とか、午後ニ至リテ風吹キとか、天候の具合からしてたゞ、晴れとか雨とかでは母が許さなかつたので、これを誌すだけでも相当の退屈を味つた。
「六時ニ起キ、顔ヲ洗ヒ飯ヲタベ、七時半ニ学校へ行キ、帰リテ夕方マデ友トアソビ、夜勉強シテ、ネタリ。」
日記は他人《ひと》に見せる為に書くのではない、大きくなつて自分で読んで見るといろ/\得るところがあるのだ、だから正直に出来るだけ詳しく書いておかなければならない――斯う母は云つたのであるが、彼は、時々母が日記をしらべる為か、書けば屹度誰かに読まれるやうな気がして、多少の感想はあつても書くのは厭な気がして、例へば、朝どんなに皆なに起されて、不精無精に起き出でゝ、口惜し紛れにおぢいさんと喧嘩をした……さういふ種類のことでも書いて置かなければいけない、と母に注意されるのであつたが、彼は如何しても恥しいことを書くのは厭だつた、勉強しない日でも、必ず勉強したと書くのであつた。毎日見られるわけではないのだから、多少の嘘はごまかしが利くだらう、八時に起きて危く学校が遅刻になりかゝつた時でも、七時起床と書いた、彼は「日記」に依つて、ごまかしを強要された、と後年思つたことがあつた。正月半ばまで書いた彼の日記帳が数冊本箱の中に、つい二三年前まで彼の故郷の家に残つてゐたが、一度彼は一寸それを開いて見たこともあつたが、幼時を懐しむ感傷などはそれこそ毛程も起らず、その無味乾燥な文章を見て、幼時の表裏ある心が見え透いて、反つて背中がムズムズするばかりで、煤掃きの時火中に投じてしまつたことがある。
たつた一個所、斯んな文章が眼についた。「――今日ハ小峯公園ニケイ馬ガアル。学校カラ帰ルト河井ノオヂサンガ清チヤント一シヨニ来テヰテ、ケイ馬ヲ見ニ行ツタ、ケイ馬ハ面白イ、馬場ノムカフガワニ馬ガ行ツタ時ハ、オモチヤノヤウデアンナニヨクカケルノヲホシイト思ツタガ、ソバニクルト馬ノイキガキカン車ノ煙突ノヤウニハゲシク、馬乗リノ顔モオソロシカツタ、大ヘンヒドイ勢ヒデアル、落チテアノ馬ノ脚ニカヽツタラタマラナイト思ツタ、ダケドマタムカフニナルト可愛イオモチヤニナルノデ、何デカ面白カツタ、帰リニ清チヤント坂道ノトコロデケイ馬ゴツコヲヤツタガ雪駄ヲハイテヰタノデマケテシマツタ、清チヤンハカケナガラ勇マシイカケ声ヲシテヰタ、僕モ汗ガナガレタリ、イキガハゲシクナツタリ、ホコリガヒドクテ苦シカツタガ、遠クデ笑ヒナガラ見テヰル河井ノオヂサンニハ、コノハゲシサハワカルマイト思ツタ……」
また彼は、中学に入ると暑中休暇日誌なるものを課せられて、毎夏辟易した。たしか四年生の夏だつたか。その級の監督受持教師は松岡先生といふ人の好い老人で、数学の担任だつたが、普通の数学教師と違つて、稍ともすれば古代ギリシヤや東方諸国の聖哲の抄論を説き聞かせ、人生悟道の研究を洩すのが好きだつた。――
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