彼が、怠けることを誇るといふありふれた悪童の典型的な頃だつた。「チエツ、日記なんて誰がつけるもんか、馬鹿々々しい、あんなものは二学期が始まる二三日前に、誰かの処へ行つて天気のことだけ訊いて来て、あとは皆な出たら目を書けば好いんだよ。」
彼は、斯んなことを得々と吹聴して、実際学校へ出す日誌には決して誌すことの出来ない多くの日を過した。それは県立中学で、非常に規律が厳しかつた。そば屋或ひは洋食屋等の飲食店に立入つたことが見つかれば五日間の停学、袴を着けないで外出すると一日の謹慎、頭髪を三分刈にしたりもみあげを短く切れば体操教員から拳固で一つ擲られ、自転車に乗ると始末書を徴発され、新しい文学書を翻けば修身点を引かれ、艶書は退学、遊廓散歩は無期停学、洋服で下駄をはくとこれはまた擲られ、流行歌を吟ずると保証人が呼び出され、ハモニカ、バイオリン等を弾奏すると、艶書を書きはしないかといふ嫌疑を受け、劇場出入は三日間の停学、運動シヤツにマークをつけると運動禁止、好天気の時に足駄をはくと、雨の日に跣足の登校を命ぜられ、夜間外出は夏期に限り規定の服装の下に海岸散歩七時まで許可、但し祭礼の場合は神楽見物に限り九時まで許可――以上は厳則の一端に過ぎない。艶書、バイオリン弾奏、文学書閲読、遊廓散歩等の悪事を発いて制裁を加へる一味の不良正義党が学生間に自づと組織されて、彼はその党の一員だつたが、彼等のその他の生活は悉く当局の忌諱に触れることばかりで、その方面では彼は煽動的張本人であつた。――だから学校に差し出すべき日誌に録すべき日は、一日もなかつたのだ。
第二学期が始まる四五日前に彼は、忠実な学生を訪れて、厭がるのも関はずその日録を奪つて五十日間の「天気」を写しとつたのである。そして天候に準じて、夫々の日の記録を捏造しなければならなかつたのである――その頃から頭も筆も到つて自由でなかつた彼は、その捏造記録の困難と云つたら、たしかに地獄の苦し味だつた。と云つて他人の日誌から丹念に「天気」を写し取る程の汲々性で、正直な記録を作成して甘んじて当局の罰を負ふたならば、自分も寧ろ朗らかになり、党員等からも推賞されるに相違なかつたのであるが、彼はまた他の党員達と同じく姑息だつたのである。
天気を写し取るといふのは、彼の発案だつた。彼がこれを提言した時、一同の者は此上もなく賞讚した。そして各々彼の写本の天気を更に模写して、忽ち豊かな架空日誌を作成したのである。――Aは、様々な材料を集めて、写真入りの日本アルプス登山記を作つた、Bは、函山天幕生活記を捏造した、Cは、漁船に同乗して大島を巡遊するの記、Dは、丹沢山に昆虫採集に赴き山猿に出遇ふの記、フランクリン自叙伝、ナポレオン言行録、ブルターク英雄伝等々の書名ばかりを無暗と列記して、暑中五十日石垣山麓に潜んで、我また英雄を夢見るの記を縷々と叙したEとか、月下熱海街道を駆足して、帰途は一路小田原御幸ヶ浜まで遠泳したといふ「マラソンと遠泳の記」のFとか、Gは、阿未利神社に於て断食七日の記、また、俺は道了山中で狸と格闘するの記を書かうか、などゝ云ひ出して、それは余り嘘らしくてバレてしまふぞ、と慴されて頭をかいて引きさがつたHもあつた。
だが彼には、一つもさういふ名案が浮ばなかつた。そしてやつと書きあげた何日分は、それが若し真実であつたならば、修身点は勿論甲上、級長の位置をも奪ふに足るべき温良、忠実な記を作成したのである。一字書くと、松岡先生の顔が浮び、一行すゝむと怖ろしい生徒監の姿が見えたり、そして自分は母に対して何といふ酷い不孝者なのだらう、などゝ思つて情けなくなつたり、無味な虚文は立所に行き詰つたりしながら、しどろもどろに、苦し紛れに背すじに汗を流して書いたのである。――如何にも家庭では、保護者の言に忠実で、専念修養を怠らぬ素振りを多く香はせたのであるが、それでも同じく捏造であるにせよ、そんな空想は思ひも及ばないのであるが、丹沢山で山猿に出遇ふの記等々のやうな柄でもない望みよりは、これは悉く自分の生活の極端な反意語を叙せば足るのであつたから、空々しい想像よりは楽であり、自分に近い方便だつた。
で一日一日の違ひと云へば、で仕方がなく、七時起床と誌した翌日は(校則では五時起床でなければならなかつた、だが、さう五時五時とせずに、稀には七時も好いだらう。)――五時三十分としたり、またその次には正五時起床が三四日も続き、そしてまた――昨日は遠泳を行ひたる為に、今朝は思はず寝過して、ハツと気付いて枕頭の眼醒時計を見れば早や七時十分過ぎ、前庭に旭光みなぎる、我は勢ひ好く飛び起き、井戸側に走り常の如く冷水浴五度、後午近くまで数学を解きたり、されど七時過ぎの冷水浴は、水温生ぬるく心神に左まで効果なきことを悟りたれば、明朝よりは、断乎
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