四時起床を決心せり――などゝ誌し、翌日は麗々と正に――午前四時、眼醒時計の快音と共に離床、夜来の雨未だ晴れず、函山は遠く暮靄の彼方に没し、四囲寂として声なし、たゞ雨滴の音のみ我れに何事をか囁くに似たり、我れ思はず応と快哉を叫び、俄然釣籠を執りて冷浴十度、この日終日精神爽かにして参考書出題の幾何学十余題を解きたり――などゝいふ風に、幾種かの日録を作成した、だが五十日間を、夫々捏造する程の困難には打ち勝てなかつた。で、幾つかのさういふ記録を天候に準じて都合好く配列し、その間に、凡庸に規則に当てはまつた、例へば――五時起床、冷浴、機械体操及び軍用ラツパの練習後、午近くまで宿題を検べ、午後水泳に赴く、夕食後一時間海岸散歩、六時半帰宅、八時就寝――といふやうなことを書き、翌日は――前日に同じ、とか――前日の行動と同一なりき――とかといふ風に誌して、それが殆ど全日録の三分の一を占めたのである。
新学期になると間もなく、彼等(自称正義党員)は生徒監の許に呼ばれた。その年から「夏期休暇中、学生行動調査録」といふ調書が出来てゐたのであつた。生徒監数名が当番を定めて、日夜市中を探偵し、その上秘かに父兄を尋ねて精密な調査を執つてゐたのだ。尤も彼等一党は常に当局の注意人物なのだつたから、この調査録は彼等の為になされたと云つても好かつた程、それ程彼等の行動のみが詳しく調べてあつた。彼の欄などには――休暇中朝食を執りたること無き由、とか、C、D、E、F等と巧みなる変装を凝らして、活動常設電気館に数回出入(月日等々)、Cは印絆纏、鳥打ち帽子、Dは口鬚、眼鏡、Eは某大学生を装ひ、タキノは、漁夫の祝着なるマヒハヒを着し頬かむりをなし、Fは自働車運転手等云々、とか、馬食会なるものを組織し、順次、父兄の留守宅に集会し深更まで喧噪を極め、或ひは(×月×日夜)西洋料理店万歳軒に集合、(×月×日夜)そば店盛々庵、(×月×日夜)汁粉店松月の奥座敷に集合し、当店職業用の今川焼器を各自使用し、乱脈を極め当主人迷惑す、(×月×日夜)自転車数台、サイドカー附自働自転車一台を駆りて字栗橋街道に至り附近の畑より甘藷、西瓜等を盗み、深更海岸に屯ろしてビールの満を引き、馬食会万歳を連呼せり云々、とか、彼等の日誌は、新学期開始前三日、天候のみを某学生の日誌より写し、××家の空家に集合し徹宵夫々相謀りて作成せるもの也、などゝいふことまで記述してあつた。これを突き付けられて彼等は、唖然とした。気の小さいHは卒倒した。彼等は凡て二週間の停学の上、修身点を零にされた。禁足中、受持監督教師が一度宛家庭訪問に来るのであつた。彼のところには松岡先生が来た。先生は、笑ひながら、
「前日に同じは簡単で好かつたな!」と、云つた。「此の頃こそ前日に同じなのぢやないかね。」
「…………」
「と、なるかも知れんが、考へなければならんのは其処なのぢや、解るかね?」
「はア……」
「普賢経に、六根清浄ヲ楽ミ得ル者当ニ是ノ観ヲ学ブベシとある、ギリシヤの昔から、即ち万物流転の説が立証されてゐる……従令それが石の存在であらうとも刻々に、その周囲に於ては、大気は移る、雲は飛ぶ、霹靂一閃、……風は吹かずとも木の葉は散る……一刻と一刻の相違は非常なものだ、まして我等は石には非ず、眼あり、耳あり、鼻あり、身あり、舌あり、意あり、即ち六根!」
今迄温顔をたゝへてゐた先生の容貌は、この時屹となつて、
「喜怒相見眼ナリ。」と云つて、人差指で彼の眉を突いた。相当力が入つてゐて、端座をしてゐる彼の体は、先生の指に伴れて一寸後ろに反り、また戻つた。と同時に先生は、
「聴審相続耳ナリ。」と云つて、両方の指の先で彼の耳をつまんで引きあげた。彼は、思はず顔を顰めて、尻を浮せた。
「愛憎香臭鼻ナリ。」と、厳かに続けた先生は、稍興奮のかたちでギユツと彼の鼻をつまんだ。――そして今度は口早く、
「嘗味苦甘舌ナリ。」と、云つて彼の口唇を、たぐるやうに引ツ張つた。彼は、また思はずウツ! と、喉を鳴らし、女の子供が意地悪るの為に憎々顔をする時のやうに頤が前に突きでたが、勿論彼の辛さとテレ臭さと、痴呆的な困惑の表情は、釣針に懸つた魚に違ひなかつた。二ツ三ツ呼吸をつく程の間、先生は、その儘指先きを離さなかつたが(先生の指が煙草臭さかつた。)忽ち、えツ! と肚のあたりに力を込めて、彼の頤を突き反し、
「常審思量意ナリ。」と、怒鳴るやうに云ひ放つたかと見ると、ヤツ! と叫んで彼の胸をドンと打つた。まことにこの時の先生の早業は、一刻前の先生の言葉通り、霹靂一閃で、堂に入つた気合術だつた。
そこで先生は、程の好い温顔に立ち反つて、お前も馬鹿ではなからうから、これ以上私としては何も云ふことはない、謹慎十四日、静思黙考して、冷浴の時はひたすら六根清浄を唱へ、審さに十四日間
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