の男もあつた。――嫌ひだなどゝ、自慢さうに云つたが、たつたそれつぱかしの怪し気な観察なのか! ――そして近いうちにまた移転する先きを漠然と心に描いた。彼が移転すると、その移転先きを詳しく母に話すのが今迄の習慣だつたが、今度はそれを彼女に何も相談しなかつたし、ハガキで通知(それは今度が始めてだつたが。)した時も、東京府下何々郡何々村大字何々×××番地と誌すのが面倒なばかりでなく、細君に代筆させたのである。同じ差出し人である彼が、若し一日に百度手紙を出す場合があつたとしても、その受信人である彼の母は、彼の現住所がそこの役場の人民録に誌されてゐる通りの住所番地をいちいち明記しないと、その次に彼が帰郷した時、封を切らずに彼に返済するのであつた。だから彼は封書は滅多に出したことはなかつたが、ハガキでもさういふ省略をすると、それを封筒に入れて返送して寄すのである、返送されたつてハガキなら当の目的は達してゐるに違ひないだらうし、稀に彼は彼女を厭がらせる為にワザと住所を忘れて Your's obedient son などゝ書き送ることなどあつた。だから今では返送もして寄越さなかつた。――それでも彼は、時々自分の為に文章を草する場合があつて、その中に現住所を用ひる場合になると、それが何んなに無駄で、反つて目触りになるものと承知でゐながら、いちいち例へば、相州小田原町だとか、伊豆熱海町だとか、牛込何々町だとか、下谷区上野とかといふやうにその個有地名を誌さないと、どうも落つけなかつた。往々他の小説に見うける如くA町とかB村とか或ひはまた単に或る村とか、といふ風に、さう気軽に扱へなかつた。想像力が貧弱な為も確かだつたが、母のあの古風な教育の影響が、こんな所まで響いてゐるかと思つて苦笑したり、そんなに余外な要でもない地名などを仰々しく書いたりなどしたら、見る人から笑はれるだらう、厭味にさへ思はれるだらうなどゝ思つたこともあつた。
二三日前彼は、今度若しこの町名に出遇ふ場合があつたら今度こそは気軽に、一番C町とやつてやらうか、頭文字をとつて、あの阿母にさへ Your's obedient son などとやれる程図太くなつた俺なんだから――そんな馬鹿なことを思つた。……別に休校したわけでもないのに普通より余外な年月を費して彼は、嘗て或る私立大学の文科を修業したのであるが、そんなに長くゐた癖に到々そこでは一人の友達もなく、稀に往来などで旧同級文科生などに出遇ふと、神経的な虫唾が走つたり、向方も向方で、あの稀代な劣等生は未だ生きてゐたのかといふ顔をするし、――結局この町にも長くゐたならば、丁度あの文科同級生と自分との関係になるに違ひない――となど彼は思ひもした。嫌ひだとか何とか云ひながら、それに引込まれる烏耶無耶性を彼は多分に所持してゐた。
(……若しもタキノが、己れの日録なるものをつくらなければならなかつたならば、彼はその第一日以後をどんな風に綴らなければならないであらうか? ……)
未だ外の景色が明るかつた時分から、ひとりでチビチビと酒盃を傾けてゐたタキノは、もう波に浮んでゐる程の心地になつて、ふつと自分で自分のことをそんな風に呼び棄てにした。――そして、何を云つてゐるのか? と、セヽラ笑つた、ひとりで――。
(ねばならなければ……ならなければならない……)
そんな馬鹿気た語呂だけが、安ツぽい玩具の滑りの悪い車みたいに舌の上をころがつた。
(……大変云ひ憎い、何とかといふ文句を、三辺も四辺も息も切らずに唱へる……子供の時分にそんな喋舌り競走をしたことがあるね! えゝと? 何んな文句だつたかな? すつかり忘れてしまつたな! だが俺は、たしかその遊びでは何時でも失敗者だつたな! さつぱり舌が回らなかつたよ……それにしても一つ位ゐあの唱へ文句を覚えてゐさうなものだが、チヨッ! 癪だな! 今一寸試して見たいんだがな? あゝいふ業は、子供と大人と何方が優れてゐるものかしら! それもやつぱり天成の一つかな? 子供の時分出来なかつた遊びは……勿論ぢやないか、いつそ反つて無器用になつてゐる位ゐのものなんだらう。)
「チヨッ」と、彼は舌を鳴した。それ位ゐのことで彼は、厭な気がしたのだ。
同じ日ばかり続くのである、即ち昼、十二時過ぎに眼を醒し、ぽかんとして、またうとうとゝ眠り、しばらくたつて寝床から逼ひ出し、入浴に出かけ、帰つて来ると灯りが点いてゐて、夕餉の膳に向ふのだ――忽ち酒に酔つてしまふ、如何して寝床に入つたか覚えはないのだ、たゞ翌日、即ち昼、十二時過ぎにぴかりと眼を開くと、たしかに其処に、英文和訳の直訳体の説明句の通りに、彼は其処に自分の存在を発見するのだ。――云ふまでもなく彼は、酔つてどんなことを考へ、どんなことを喋舌り、どんな動作を演じたか、悉く忘れてゐる
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