を破つて、この門の扉にバラバラと礫の当る音を彼等は聞いた。子供のいたづらかしら、と彼等は囁いた。
「石をぶつけて来た。」
 斯う云つてHが、真赤になつて戻つて来た。家に入ると急にHは大声をあげて怒鳴つた。そして夢中になつて「もつと、でかい石はないか。」と叫んで、また出かけようとすると、祖母が背後から抱き止めて(この祖母は、忠臣蔵の科白を大抵暗記してゐて、日頃その声色が得意だつた。)――今は戦国の代ではない、争ふならば堂々と議論をもつてなすべし、ましてや闇に乗じて門に石を投げるとは! 先方に無礼があるならば、明朝出かけて……云々、といふ意味のことを古風な云ひ回しで、説き聞かせて、五十歳に近い婿を諫めた。Hは、何か口のうちでブツブツ云ひながら寝てしまつた。黒い門の主は、Hに投票を約した人である。勿論Hは、翌朝出かけはしなかつた。H・タキノは、どんな議論も不得意で、怒ればただ口惜し紛れに「馬鹿ア」とか「畜生奴」とか、「外へ出やがつたらぶん殴るぞ!」と、単なる感投詞を投げるより他に能がなかつた。そして翌日出遇へば、淡々ではなく、云ひたいのだが云ふ言葉を知らないので、たゞ憤ツとして横を向くだけのことしか出来ない。彼がまたこの性質をその儘享けついで、文筆の士でありながら、隣りの犬に食ひつかれて如何程口惜しい思ひがあつても、議論をもつて抗議する術を知らなかつた。後日彼の父は、あの一票の投票者を探して、友達になりたいといふことを彼に告げたことがある。だが、その友達とは遇はずに死んだ。――彼が、今父から享けついで、考へることは「その友達」のこと位ゐのものである。そんなに彼は、父に似て、つまり資金を投じて失敗する事業でなければ、他に何の能もないのだが、父がさういふ事業のみに没頭したので、今は彼の家は貧乏になつて、父の如き生活は営めなくなつたのである。彼は、あの通り幼時から不得意であつた「貧しき日録」に就いて、考へるより他に日の送りやうもなくなつた。そして此頃の日録は、五六行誌せば足りるのである。

 或る日彼は、洋服を着て、ポケツトにオペラ・グラスなどを入れて外出した。――細君は、清々とした。夜おそく、非常に酔つて帰つて来た。翌日、また彼は、今度は和服を着て出かけた。その晩は、帰らなかつた。電車の着く毎に、駅夫の呼ぶ声が聞えたりするのが一寸厭だつたが、細君は久し振りで沁々と読書なども出来て、落つきを感じた。来る時は、郊外はもつと広々としてゐるかなどゝも思つたのだが、蜜蜂の巣のやうな家がいくつもならんでゐる、その一つがこの家で何の気易さもなかつた。こんな家に入る位ゐなら、何もこんな処に来ることもなかつた、と彼女は思つた。夫の故郷の母が、自家の女中を寄して呉れたのだが、たつた三間しかない家で、女中は笑つて帰るより他はなかつた。彼女は、軽蔑をうけた。定めし夫が、いつもの通り家賃とか敷金とかをごまかす為に、故郷の母にあられもない法螺を吹いたに決つてゐる、いつまで不良学生のつもりでゐるんだらう、実家の危期も忘れて――彼女は、斯う思ふと怖ろしくなつた。尚厭なことは、自分まで同類と思はれることだ、何一つ買物をするでもなく、何処に一処に出歩くでもなく、女中のやうに働き、……などゝ続けた時彼女は、思はず、
「あの馬鹿の……」と夫を称んで、反つて情けなくなつた。……「何といふケチな男だらう……」
 静かな夜だつた。彼女は、四つになつた子供の寝顔を眺めると、涙ぐましくなつた。子供は、父に似ず強健な体格で(これを思ふ時だけ彼女は光りを感じた。)――フイゴのやうに順調な寝息をたてゝ眠つてゐた。……だが彼女は、S・タキノの母も、十年余の夫の留居を守つて、常にさういふことを思つたことを知らない。彼女は、此頃変に夫が家に落つかず(どういふわけか彼女は嫉妬を感じない、たゞ変だつた。)、突拍子もない寝言を叫んだり、聞きとれぬ位ゐな独り言を隣室で呟いだりすることを、ふつと思つて、神経衰弱なのか知ら! といふ気がした。と同時に、黒い翼で頭を打たれて――奇妙に不吉な幻を見てしまつた。――いや、これは自分の神経が変になつてゐるんだ、と彼女は慌てゝ、力なくセセラ笑つて見た……。
 翌晩彼は、遅く帰つて来た。相当酔つてゐるらしかつたが、陰鬱な顔をして、大声も出さず、そして盃を取りあげた。
「阿母と一処に暮したい。」
 彼は、そんなことを云つた。誇張した動作は見る者に不愉快を与へる――そんなことを熱海日誌に書いたことなどを彼は思ひ出したりした。
「田舎へ帰つて、ほんとうに勉強しようかしら! 第一此方へ居ると阿母のことを考へなければ、ならないといふことが……ねばならない、ならなければならない、must be といふことは、その種類の如何なるを問はず、負担である。負担は厭だ、虫の好い寝言だと云はれて
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