ない。Kは、今日真鶴まで泳いで船で帰つて来た。少しでも凝ツとしてゐると親爺の怖しい顔が浮んでやりきれないから、起きてゐる間は滅茶苦茶に運動するんだ、とKは云ふ。夜になるとKは倒れるまで酒を呑む、一寸心配。)
(ロシヤとかでは、雪中自殺法といふのがあるさうだ。泥酔した揚句、雪の中を漫然と歩き回つてゐると非常に快い眠気が襲つて、眠るとその儘安らかに永久に醒めないのださうだ、多くの自殺法のうちこれが最も楽な方法なさうだ。海の上でもそんな芸当は出来ないかな? などと笑つてKが云つた。ロシヤの話なんて嘘に違ひない。厭なことを云ふKだ。)
(Kが、気分が悪いと云つて起きなかつた。額に手をあてゝ見ると酷く熱い。驚いて計つて見ると三十九度強。慌てゝ外へ飛び出す、A院へ行つたが留守、他に知合ひなし、出たらめに三軒の医院へ頼んだ、俥が街を走つてゐる時、何のわけもなく、ふつと立ちあがり、その儘暫らく走り、往来の人に笑はれて始めて気附いた。二人の医者が来て呉れた。日射病、大腸カタル、三ツの氷嚢で頭と胸を冷す。四十一度まで昇つた。自分は病気の智識が何もなく、あまり病気になつたことがないので多くの不便を感じた。徹夜。徹夜は得意だから何の苦もない。)
(Kは家へ知らせてくれ、といふ。もうその必要はないのだが、どうしても知らせてくれと云ふ、Kが知つてゐる看護婦を頼みたいといふ。郵便局へ行つてKの家へ電話をかける。Kの母の声はふるへてゐやた、此方が心配させぬやうにワザと他易く云つてゐるのだと思つたらしい。少しそれもあつたが、Kの母は敏感すぎた。あしたの朝、看護婦と二人で行くと云つた。看護婦だけで好いんだけれど、遊び旁々のつもりで来るならいらつしやい、と附け加へずには居られなかつた。あんた等のところへ遊びに行く馬鹿はない、とKの母は云つた。)
(Kの母は午前中に来た。前の日に彼女が出した手紙が、彼女が夕方、丁度ぼんやり門口に立つて海を眺めてゐたところに着いて、彼女は自身で出した手紙を自身で受けとつた、もう先に来てしまつたことだつたから、と、此方を向いて彼女はテレ、帯の間に秘さうとしたが、一寸見ると宛名は自分だつたので、自分はふざけて無理に取りあげて読んだ。おとゝひから、自分達は初めて笑つた。随分長い口語体の手紙だつた。手紙を読むと、自分の胸は、一杯になつた。あの子を生んだ哀しい私は――と書いてあつた。翌日出かけるのも忘れて、そんな手紙を思はず書いたKの母の心は解る。)
 彼は、此間そんなものを取り出して見たが、わけもなく破棄した。これでは松岡先生に、眼を突かれ、鼻をとられた当時から一歩も出てゐない――そんな気がしたらしかつた。だが現在は、この郊外の日々は、如何程先生から酷く、耳を釣られ、口唇を引かれ、胸を叩かれても「前日に同じ」より他に無いのである。
 また彼は、血統を思ふこともあつた。父は、一生何の定職もなく、その癖何の落着きもなく慌忙のうちに人生の幕を閉ぢた人である。父は、常々「俺は了見が世界的なんだ、俺は、云はゞコスモポリタンだ。」などといふことを、酒などに酔つて高言する程の、一種の臆病者で、その言説が明日まで残ることはなかつた。一年程前に死んだのであるが、彼にとつてはもう古い夢のやうで、強ひて思へば、何となく笑ひたいやうな気持(それは丁度、その父がまた先代を笑つてゐたやうに)になる位ひのもので、子に伝ふべき遺業も言説も、また子が、どんな意味に於ても、子として他人に向つて語り得る材もなかつた。だから彼は、祖先伝来のカマボコ製造業を享けついで、今は専念俎を打つてゐられるKなどが羨しかつた。今彼が、享けついだ一つと云へば、こんなことが一つ残つてゐる。
 彼の父は、たつた一辺何の迷ひであつたか、村会だつたか、県会だつたかの議員候補にたつて(それは、おそらく普段の言説とうらはらの業である)夢中になり、多くの運動員を集めた、その夢中さ加減が余り夥しくて、(如何にコスモポリタンでなきことよ! また常に云ふソシヤリストでなきことよ!)この運動員が夫々投票したゞけでも「もう占めたものだ、万歳だ。」――「いざとなると俺には味方が多いんだ、何しろ俺はデモクラツトを守つて来たんだからな、職人の友達だけでも大したものだ、思はぬところで信用されてゐるからね。」と、非常に楽観して、投票日には得々として「青い顔をしてゐる他の連中の意久地のねえこと!」――「あまり突飛な最高点で、帰りに闇打ちにでも遇はなければ好いが。」と、まつたく不安な顔をしたり、で、いざ開票して見ると、H・タキノには一票しか入つてゐなかつた。――夜、母と、当時保養に来てゐた母方の彼の祖母と彼(文科大学生であつたS・タキノ)とが、火鉢を囲んでHの帰宅を待つてゐた。この家の真向ひに大きな黒い門のある家があつた。と、突然静寂
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