である。始めは作家志望ではなかつたのであるが、そんな月日を送つてゐるうちに、いつの頃からか、彼は自称「自己派」の学生になつてゐたのである。
 だから彼は、あのやうに尤もらしい顔付きをして「若しもタキノが、己れの日録なるものを……」などゝいふことを、今更のやうに呟いで、顔を顰めたのである。生活は、あの[#「あの」に傍点]通りである、思想も、あの[#「あの」に傍点]通りである。だが彼は、未だ青年らしい自惚れを持つてゐて、迷夢とも知らず、「生活が――」「生活が――」などゝいふ愚痴を滾しては、己れの非も忘れて、迷夢をたどつてゐたのである。他人が見たならば、何といふ怖ろしい自惚れであることよ、「自己派」学生タキノ某の迷夢は? ――彼は、既に父を失ひ、長男であるにも関はらず寒村の家は母に与へ、今は四才の子の父で、そして三十歳である。古き諺の、空しく犬馬の年を重ねて――も、或ひはまた古への歌、「もゝちどり囀る春はものごとに、あらたまれども我はふりゆく」も、その儘彼の為には、あらたなのであつた。
 四五日前、彼は小田原の旧友Kから、来月になつたら野球見物旁々上京する、その節久し振りで君の寓居を訪れたい、面倒でも電車の乗り方と地図を書いて寄して呉れ――といふ意味のハガキを貰つてゐた。彼は、Kの来訪が待ち遠しかつた。GとKのことを、先程一寸誌したが、中学の頃のあの自称正義党の連中は、長じて揃ひも揃つて親不孝者になつたが、今では大抵何かに収つた。たゞひとり自分だけは……と彼は、時々思つて暗然とした。Kは、嘗て早稲田大学に入つて野球選手になる決心で上京したのだが、未だ入学しないうちに麹町、富士見町の芸妓に恋して、あらゆる口実を設けて一年ばかりの間遊学金を取り寄せてゐたのだが、到々実家に知れて引き戻され、暫く家業に従事した。が、また土地の芸者に恋して、何回も続け様に掛取金を費消したので、勘当をうけ、ではアメリカへ行つて運動家になると高言して親から最後の旅費を貰つた。が、アメリカへは行かずに、その芸者と箱根へ行つた。そのうちに、その芸者とはどうしてか、別れて了ひ、今度こそは「改心」――全くKはこの言葉を何度使つたことか――すると泣いて親に頼んだ。そして店に坐つた。が、また土地の別の芸者に熱烈な恋をして、掛取金を瞞着した。そしてまた勘当をうけ、女は寄所の町へ行つてしまひ、丁度その頃タキノも家を追はれて熱海に居たので、夏中其処に来てゐた。熱海で、日射病にかゝり、それをきつかけにして実家に戻つた、が、また掛取金を着服して、別の芸妓に通ひ詰め、今度こそは五年の勘当を申し渡されたのだ、が、丁度その翌日が大正の大地震だつた。火災が起つて町は全滅した。――Kの家は、非常な老舗なのだが地震後は、家運頓に衰へて、嘗て十数人の職人が常に店先で花々しく製造に従事してゐたにも係はらず、何時か彼が一度前を通つた時に見たら、Kが、三四人の職人と一処になつて大俎の前に立つて、専念勇ましい音頭を執りながら、巧みにカマボコを叩いてゐた。
[#ここから2字下げ]
(作者註。「カマボコ」とは、一種の食料品にして、相模小田原町、古来の名産なり。これが製造に当りては、長さ二間余もあらん大俎の上に材を置き、二つの庖丁様の撥を両手に握りたる数名の職人が、掛声そろへて一勢にこれを打つなり。その音、恰も木琴(Xylophone)の弾奏を聴くが如く面白し。)
[#ここで字下げ終わり]
 三年前、熱海に居た頃も、彼の生活も思想も今と変るところはなかつた。――Kのハガキで彼は、一寸そんな回想に耽つたりして、沁々と自分が「自己派」に属することを喞つた。彼は「スプリングコート」といふ旧作の中に、僅かばかり当時の模様を挿入したことがあるが、それはKが訪れて、いくらか生活が活動したので、その部分を、小説にする目的で先に日録を作つたのであるが、最初計画した小説は失敗したので、折角の日録も不用になつてゐたが、後に「スプリングコート」の時に一二個所引用した。その日録のあまりが、十四五枚未だに彼の筐底に残つてゐた。この日録は、そんな目的だつたから、小学や中学のそれのやうではなかつたが、無味乾燥は免れなかつた。
(あまり黒くなつたので人相が変つた、と云はれた。鬚を剃らうとして鏡の前に座り、顔を眺めたら自分ながら「なる程!」と思はれた。碌に泳げるのでもなく、また海辺が面白くて出掛けるのでもない。Kに誘はれて厭々行くのだ、たゞ部屋にごろごろしてゐるよりは増だから。――だが、さもさも愉快さうにはしやぎ廻る男女を見るのは適はない、誇張した動作は、見る者に不快を与へる。)
(もう、八月も半ばである、六月に一度東京に出かけて胃腸を痛めたのが、未だ全快しないやうだ。東京を思ひ出すと眩暈がする、その癖田舎の淋しさには、いつになつても慣れさうも
前へ 次へ
全11ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング