も、性質が性質なので……誰の性質? H・タキノ? S・タキノ? ……」
 細君は、胸で、舌を鳴して凝ツと堪へてゐた。そして、わざと眠さうな顔をして、汽車の響きを、消へるまで後を追つたり、時計の音を数へたりした。
「ウツ! われ徒らに無明の酒に酔ふにあらず……と、云へたら面白からうが、チョツ! お酌をしろ! ……鸚鵡能く言へども、飛鳥をはなれず、猩々能く言へども禽獣をはなれず、いま、人にして礼なくば、能く言ふと雖も、禽獣の心をはなれず、ともあり、或ひは……」
 昔母から教つたことなど、と云ひかけて、あゝと、彼は酔漢らしい仰山な溜息を吐いた……。
 この晩は、細君は、いつものやうに退屈な厭な気がそれ程しなかつたが、その代りに妙に夫の顔つきが薄気味悪るかつた。で、彼女は、
「あたしも小田原へ行つた方が好いと思ひますわ。」と沁々した調子で云つた。だが、あまり低い声で云つたゝめか、夫の耳には入らぬらしかつた。
 彼の頭には、斯んな光景が浮んでゐた。……(牀前月光を看る、疑ふ是れ地上の霜、頭を挙げて山月を望み、頭を低うして故郷を思ふ。)――「李太白」――中学二年の時覚えたものだ。
 まつたく、そこの窓が月明りで白く滲んでゐた。彼は、海辺の部屋に居るやうな気がしてならなかつた。――幼時、春になると、そして月夜の晩には、母は屹度彼を誘つて海へ降りた。――そして彼女は、唱歌を歌つた。私が十を数へる間に、あの舟の処まで駆けて行つて御覧などゝ云つて彼女は、彼を走らせた。彼が、離れるに伴れて、彼女は数へる声を大きくした、そして、一つ一つ間を長くして、九ツに至つた時、未だ彼が夢中で駆けてゐると、彼が擽ツたく思ふ程、待つて、彼の手が舟にさわると同時に、
「十ウ――」と、余韻を長く叫んだ。
「今度は其処から……」と彼女は、云つて、また彼が、夢中で駆けて、母の側に着いた時「十ウ――」と叫んだ。――「今度は、二十にするから一本の脚で飛んでお覧な、往きは右で、復りは左……」
 そんな遊びをして、夜を更した。一本の脚の時は、大抵彼は、復りの途中で疲労して、砂の上に転んで起きなかつた。
 つい此間彼は、母から、――此方が女だと思つて馬鹿にして、何辺脚を運んでも、取るべき処から取るものも取れない、その上××店の主人などは、酷い嘲笑を与へた、そんなことには慣れないので沁々口惜しく、と云つてお前にはこの代りは出来ないし、どうしたら好いか迷つてゐる――といふ意味の手紙を貰つて、××店の主人に彼は、酷い憤りを持つたこともある。
 彼は、いつもと違つて、妙に慌たゞしいやうな素振りで切りに盃を傾けながら、そつと口のうちで「若しもタキノが」とか「……ねばなるまい。」とか「わざとらしいことは出来ないし。」などゝ呟いでゐたが、細君が隣室に去ると、それらの独言が尚も繰り反されて、微かに細君の耳にも解る程になつてゐた。
 ――細君は、自分が神経衰弱なのだと思つて見るのだが、どうも夫の様子が薄気味悪くて適はない、途方もない妄想に駆られて、凝つと子供を抱いてゐた。と、夫の独言は益々はつきり響くのだ。――(お母さん、これから仲善く一処に暮しませうね、)――(たしかに私はあなたのオベジエント、ソンです、今迄のことは許して下さい。)――(頭をあげて山月を望み。)――(足もとをしつかり。)――(だが帰つて何をする?)……。
 と、いやに静かになつたので、細君は、やつと眠つたか、まアよかつた、もう少しそつとして置かう、と思つてゐると、
「ヤツ!」と夫が、何か力をこめたやうな気はひを感じたので、思はず彼女は振り反つて見た。
 すると彼は、端然と背を延して坐り、凝ツと物々しく前を睨み、ヤツと云つて、眼を突いたり、鼻をつまんで上向いたり、耳を釣つて、痛さうに顔を顰めて延び上つたり、口唇をつねつたり、――また、ヤツと云つて胸を叩いたりしてゐるのであつた、夢中で――。
 これを見ると細君は、突然ゾツとして、子供の夜着の中に顔を埋めた。
(やつぱり自分の気の迷ひではなかつたのだ、あの人は到々気が違つてしまつたのだ。)
 細君は、一途に斯う思ふと、全身が震へ、と同時に激しく涙が滾れ出た。[#地から1字上げ](十四年四月)



底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「新潮 第四十二巻第五号」新潮社
   1925(大正14)年5月1日発行
初出:「新潮 第四十二巻第五号」新潮社
   1925(大正14)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年5月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:/
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