く稀に朝霧をきつてゆく車の響きがするだけで、街は未だ眠りの奈落であつた。私は雪の中に道を失ふた旅人のやうに、あてどもなくふら/\と歩いて、眠気の襲来を待つのであつたが、不図、辛うじて一台の車を拾ふと、品川まで――とつたへた。
 そこの廓内に夜通しの営業に栄えてゐる一軒の食ひものやのあることに気づいた。
 私は怕る/\盃に口をつけてゐた。――おもふにつけ、それは苦く味はひのない液体で、一杯の盃を傾ける毎に思はず顔を顰めては、凝つと首筋を伸して宙を睨めてゐるだけだつた。
 寺小屋の机のやうな食卓が二列にならんだ広い座敷で、私のと一つ置いたところでは、ひとりの眼の据つた頬のこけた中年の、商人とも他所行の職人ともつかぬ男が、何かの鍋を前にしてやはりひとりでぼんやりと湯気を視詰めてゐた。既に、その食卓の上には四五本もの徳利がならび、間もなくもう一本を注文したのであるが、女中が酌をすゝめようとすると、
「関はないで――」
 と彼はことわつてゐた。そして、無造作気な手酌で盃を傾けては、何かうつうつと深い思案に耽つてゐる様子は、余程不気嫌な豪酒家と察せられた。――向ふ側には真つ赤になつた会社員風の二人
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