産を持つて帰るから心配しないで待つておいでなさい。」
と書置きを残して逃げ出して来たのであつた。
私は、人生の半ばを既に一ト昔も超えてゐる健康な壮年者でありながら、斯んな愚かなトリックに頭を悩す自分を思ふと、就中妻に対して恥を覚ゆるのであつた、日増に、年毎に「この訪問」の手段が六ヶ敷くなるだけで、他に何の成長力もないこんな男を配偶者に選んだ婦人の上を思ふと、そぞろに憐れを覚ゆるのであつた。だから私は、決して彼女に、この謀りごとを打ちあけようとはしなかつた。こんなことを明らかに申し立てたならば彼女は、悲嘆に暮れ、十年の苦節も水泡に帰したか――といふやうなあきらめに達して、そして、私を軽蔑して、新生涯を求めに行くであらう――と私は思ふのである。
ただ、私は、人情のことは別にして、拡く、一婦人に、斯る類ひの悲しみや決心を抱かせるといふことは、紳士としてのこの上もなき恥辱である――といふ西洋古来の礼節を尊敬してゐたからである。
芸術――
それは、私、孤りにとつてのみの、永遠の苦悶であり、怖ろしき陶酔であり、果しなく花やかな巻雲であるのみだ。
――泥棒だつて、嘘つきだつて、あの仕業さ
前へ
次へ
全28ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング