ナンテの鬣が、その首根にしつかりと吸ひついてゐる騎手の眼となく鼻となく口となく耳となく、そして露はな胸となく、滅茶苦茶に乱れかかつて息苦しくでもなつたのであらう――騎手は困つたクシヤミの発作に駆られて、顔や胸を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]つてゐたが、そのうちに止め度もない涙がパラパラと滾れ落ちてゐた。
春であつた。丘の真下にある村里の灯が、ぼつと滲んでゐた。――そんな全速力の馬の背に伏して、だらしのない顔を埋めてゐる私の耳に、傍らの小川のせせらぎの音が時たま酷く長閑に響いてゐたのを、私は今もはつきりと憶えてゐる。汽車の窓から眺める夜の景色のやうに、白い街道が激流のやうに走り、麦畑が沼のやうに見え、大根の花が蝶々の群のやうに飛び散つて見え、川ふちの猫やなぎの幹が、はつきりとそれと判別出来たことなどを記憶してゐる。
私は、その向うに見ゆる村里の一隅で森に通ふ樵夫のやうな生活を送つてゐた。
私は、その小判と袋の中銀の器とを現代の通貨と売り代へて、都へ上つた。
………………
私は、再びこの夜、あの隣り村の生家を「訪れ」なければならぬ窮境に立ち至つてゐたのである。――
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