切つて行く者。
「酷い目に合つたよ。彼奴が、そんな悪人とは気付かなかつた。」
「悲しみを知つてゐる悪人であるところが、惨めだな。」
 ちよつと耳を澄すと、耳の傍らを寄切つて行く人々の切れ切れの言葉が、はつきり解るのである。
「憐れな男だ。一体彼奴は何に憧れてゐるんだらう。」
「虚妄と現実の境界線を見失つてまるで化物のやうな歩き振りをしてゐるぢやないか。」
 聞くまい――と思ふと直ぐに消えてしまふ、面白いやうだ! 私は、作曲家のやうに空を見あげてゐる。見る見るうちに黄昏の帷が深々と降りて行き、彼方の高楼の屋上、此方の店先の軒先に、青、赤、黄の万花灯《ネオン・サイン》の光りが一斉に瞬きはじめてゐた。窓々の拡声ラッパは花やかな夜の開幕を告げる狂燥曲を放送しはじめてゐた。濤の音が忽ち圧倒されてしまふ。
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万有の精は吾が心のうちにあり
天地を流れ、吾が心を流れて
おお、この止め度なさ
君を抱きて吾狂せん――
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 街の音楽は十五世紀の理想家が歌つた恋歌を奏でてゐるかのやうである。試みに、口のうちで、あの長い歌詞の処々を口吟んで見ると、ぴつたりと街の音楽
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