あるが、別の想ひに耽つてゐる者の耳には、無限に轟々たる濤の響きのやうであつた。汽車の窓に頬杖を突いて、たつた今出発して来た都の賑やかな風景を、彼方の蕭条たる山の上に回想してゐる時に聞く列車の轍の音の適応性にも似た、円やかな音響が巷に溢れてゐた。轍の音や、深夜に聴く時計の音に伴れて、何でも関はず歌つたり饒舌つたりしてゐると、あの音響のリズムは忽ち歌になり、言葉になり、話相手になりして自由であることを私は屡々経験するが、この巷の混然たる絶間なき響きも、憂への日には吾を憂へ、悦びの日には躍動を、勝手気儘に節づけることは自由であらう――など、私は、さもさも六ヶ敷いことでも考へてゐるかのやうな勿体振つた胸で呟きながら、何といふこともなしに、自信あり気な思ひに打たれてゐた。
私は車道の片端にある瓦斯灯の柱に凭りかかつて、腕を組み、ぼんやりと眼をかすめて、美しい洪水のやうな往来の有様を熱心に眺めてゐた。――一日の務めを終へて、いそいそと帰路を急いで行く人達、夕食後の散歩に手を携へて出かけて来た恋人同志、酒場へ行かう、酒場へ行かう! と先を急いで行く若者達、いや俺はダンス・ホールへ行くのだ――と振り
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