。ぢや思ひきつて乗るわ。」
「慣れるまでは誰かが轡をとつて呉れるから大丈夫さ。君の轡のとり合ひぢや、とり手の志願者が殺倒して、一騒動が持ちあがるだらうよ。」
「空想ぢやないんですのね、あなたの「西部劇の歌」といふ作品は――」
「生活記録だね。」
「ぢや、あなたは、あの時分には、ほんたうに、あんな、アメリカ・インヂアンの着物を着て、麦袋を担いだり、枯草を積んだ馬車を駆つたり、居酒屋で手風琴を弾いて騒いだりしてゐたの?」
「思ひ出しても冷汗を覚える。――憫れなる者よ、何故あつて汝は汝の見る客観世界に満足せざるか、汝は太陽・月・星辰及び海原よりも、観るべき更に豊かな、更に偉大なる何物を把持するや――この聖人の言葉は俺の胸を貫く、それ故に俺は俺の幸福の追求のために与へられたる凡ゆる実在の事物に最高の満足を求めて悔なき筈であるものの、何故なるか、過去の己れの姿を回想するに及ぶと、その姿の憐れさ、その行為の滑稽さに目眩んで悪夢の谷に転倒する、明日、省る今日の己れが怖ろしい。」
「だからお酒を止めれば好いのよ。」
「うむ。都合が好いことには俺は空気にでも酔つ払ふことが出来るんだ、酔はうとさへ思へば――一杯のデイルスの水と一壜のウオッカとの差別も知らぬ。悪夢の谷を――陶酔の――と云ひ代へることだつて、別段至難の業とも思はれぬまでさ。馬鹿な話は止めて、さあ、もう一遍踊らう。」
「……で手紙は、何うなつたの?」
「さうだ――で、書かうと思つたらペンが何処かへ行つてしまつて見つからないのさ。そこで、鉛筆を拾ひあげると、こいつがまた折れてゐるんだ。」
「まあ、可哀想に――」
「ナイフなんてありはしない。で、うつかり大事な剃刀で、そいつを削つて手紙を書いたのは好かつたが、さて今度は※[#「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2−93−20]を剃らうとすると、さあ大変だ……」
「面倒な話だわね。宿屋の近所にだつて床屋位ゐあるでせうに……」
「…………」
「ほんたうに、その※[#「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2−93−20]ぢや、憂鬱にもなるでせう。折角、そんな新しい着物を着てゐるのに――」
「何うかして、俺の尊敬するタルニシア姫の頬ちかくに、この顔が近づきはしなからうと思ふと、気が気でなかつた。それ以外に何んな哲理を索めあぐんでゐたわけでもなかつたんだよ。失敬――」
「このビル
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