局に乾干びさせてしまふ位のものである。個性と自然との純一を貴んでこそはぢめて心身のトレイニングに役立つべきで、今や朝《あした》の霞を衝いて津々浦々までも鳴り渡るあの明朗至極なるラヂオ體操を見ても明らかの如く、正にあのやうなる悠かな窈窕味をもつて大氣に飽和し、自づと濶達なる人生の大呼吸を體得すべきが當然の所以は、かの偉大なるルツソオも既に「エミール」の中で縷々と述べて居り、更に世紀文明の太初に遡つては夙に大ソクラテス竝びに大プレトーンが全生命を傾注したる諧謔法を選んで永遠に若々しく呼號してゐる通りである。不幸なる私は、あの中學の體操に依つて犯罪妄想の如き心悸亢進の胚種を植ゑつけられた。兎角、肩肘張らしたる度偉い掛聲は人生を暗澹とさせるより他に効果はない。そこで私は或日思ひあまつて、あの體操に關する疑惑をパジエツト先生に訴へると、眞の日本流はあんな筈ではないであらう、またスパルタ流と雖もその趣きを異にするものだと私に同意せられ、君は明日にも、眞の自由と、誠なる個性を尊重する校風の、都の學園を索めて轉校すべきが當然だ――とすすめたが、私が轉校もしないうちに先生は京都の大學へ移られた。先生はエール大學のドクトル・オヴ・フイロソフイで、文藝にも餘程の理解を持つて居られたらしかつた。後にも私との手紙の往復は續いて、私が又作文丁をとつたことなどを知らせると、君は未だ作文に於ける Herald system を知らないまでだ、自分に呉れる手紙を見ると、いつも大層奇拔なるロマンテイツク・スピリツトに富んでゐて詩人の素質が十分だ、いつそ手紙を書く通りに自由に書き、それを和譯する方法をとつて見たら如何か、と注意されたので早速私は、よしツ! と胸を叩いて、その方法にとりかかつて見たが、和譯した文章を眺めると、拷問にかけられても他人の前には提出も敵はぬ幼稚沁みたものに見え、私は腕をこまねいてとつおいつなる長太息を洩らさずには居られなかつた。
斯くの如く體操と作文の爲に最も救ひなき憂鬱《ユーマー》を味はされた中學を終へると、私は一高の理科へ入學するつもりで、本郷に居た醫學士の叔父のところへ來た。あの二科目さへ除けば別に好惡もなく、何んな入學試驗問題集を見ても六ヶしいと思はれるほどのこともなく何の不安もなかつたので、麹町の二松學舍へ通つて作文問題の用意のために改めて漢文と國文に身を入れようとした。ところが試驗場へ行き、あまり大勢の學生が青ざめてゐるのを目撃すると、一人でも餘分に入學させてやりたいと云はんばかりの凡そ意味もない覇氣見たいなものに驅られて、そのまま方角も知らなかつた早稻田へ人力車を走らせた。パジエツト先生にはあんなことを云はれたが文學的野心は抱いた驗しもなく、讀んだものと云へば押川春浪の「武侠世界」だけだつたので、思はず瞬間的にそんな大それた感情に驅られたのだつたかも知れない。英文科を選んだといふのは、單に自分の英語の習慣に媚を呈したに過ぎなかつた。手續(無試驗)を濟ませて、鶴卷町通りの高島屋支店といふ洋服屋に寄ると、頭髮を綺麗にわけた神經質さうな鋭い眼で、温厚さうな小柄の主人が、何科だと訊ねるので、Lだと答ると、早速ノートを持出して來て自作の詩を朗讀し、感想を聞せて呉れと云つた。その詩は記憶にないが、妙に私はこの時の印象がはつきりしてゐるので記述しておくのだが、おそらく文科生としての文學談を聞いた第一歩だつたからであらう。――彼は私が默つてゐると、珍らしい謙遜家だネと好意を示し、君は何を書く? と云ふのであつた。事實の通り皆無と答へると彼は信ぜず「あてて見ませうか、ドラマでせう。」と云つた。そして彼が自由劇場の話などを持出したところ、私は二年位ゐ前からアメリカ娘を案内して大分芝居を觀てゐたので多少の受應へが出來ると、いつの間にか彼は獨りで默頭いて、これから先輩を紹介しようと云つて早速案内した。私も何故ともなしに悦んだのである。文科の三年生で本郷素行といふ方だつたのを私は覺えてゐる。本郷氏は書物に滿ちた下宿の一室で腕まくりで論文作成に沒頭してゐた。五分刈頭の學者肌の人柄で、高島屋が、牧野さんはドラマテイストだと紹介すると、本郷氏は凝つと私の顏を見て鷹揚にうなづいた。私は、いいえとか、未だそんな……とかと口のうちで呟いてゐたが、主人と先輩は頻りともうイプセンに就いて語り合つてゐた。私は無論默つて坐つてゐるのだが、凡そそれまでに感じたこともないパジエツト先生の所謂眞の自由と誠なる個性の尊重ともいふべき雰圍氣を事實に觀る想ひがして、何といふことなしに文科生たるの歡びを感じたのを未だに忘れられない。何故なら私はそれまで、個性とか思想とかに就いて語り合つてゐる人の姿を見た驗しもなく、個性を考へるといふことは丁とか戌[#「戌」はママ]とかに匹敵する惡業の
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