てゐたのを、わづかに思ひ出すことが出來る。――中學を終る頃になると、そこに來る同年輩のアメリカ人の娘と私は盛んなる手紙のやりとりをするやうになつて、時には、君コソハ僕ノ永遠ノ女王デアリ、僕ハ君ノ最モ忠實ナル下僕デアル――となど、全くその通りの氣持で書き、また、斯ンナ月ノ美シイ晩ニ君ト腕ヲ組ンデ、斯ンナ靜カナ海邊ヲ歩イテヰルト、僕ノ魂ハ恍惚ノ彼方ニ飛ビ去リ、嬉シキ涙ガ滾レサウニナル、コレハ僕ニトツテ生涯ノ最モ美シキ思出トナルデアロウ――と、それも全くその通りの感銘を持つて喋舌つた。
 ところが私は(記述は前後するが)その後結婚の以前に三度もの戀愛を經驗したが、手紙は恰で駄目で、どんな類ひの手紙を貫つても[#「貫つても」はママ]容易にそれに匹敵するやうなことが書けず、それでも夢中になつて書くには書いたが讀み返すといつも全身が砥石にかかつたやうな堪らぬ冷汗にすり減つた。會つてもつい默り勝ちで、思はず欠伸をするやうなことになつたり、眞面目なことを云はなければならない場合に、つい空呆けて横を向いたりするやうな始末で、皆な失戀に終つた。どんなに熱烈に思つてゐても、四角張つた特に拙い漢字で、戀しき君よ……などとは書けず、また徹底的に眞面目さうな表情で、屹度結婚しようネ――などとささやいて、手などは握れなかつた。私は、あのアメリカの娘に示した態度や言葉の十分の一でも、この敬ふべき郷土の言葉をもつて驅使成し得るならば、と悲嘆に暮れた。思へば思ふほど、われわれの言葉や文字は、尊嚴に過ぎて、到底犯し得ぬ貴重なものに變つた。
 中學の四年頃(記述は前に戻るが)パジエツトといふ若い英語の先生と懇意になり、つい話しかけられると問はるるままに答へてゐた。英語の科目は凡て、終始滿點であつたが、それは當然のはなしで寧ろ濟まなく考へてゐた。何の先生とも個人的な口を利くことは絶對に嫌ひなものであつたが、パジエツトさんの場合は全く止むを得なかつたにも關はらず、いつか、毛唐となど得意さうに話して、あいつは生意氣だといふ評判が立つてしまつた。凡そ私は得意でなどはなかつたのであるが、家に戻ると娘を案内して(その時分はあんな手紙を書きもせず、特に恥しいといふことも知らぬ程度で)自轉車を竝べながらあちこちの風物などを説明しまはるのであるが、娘が呉れるネクタイを結ばなければ惡いやうな氣がして、制服を着換へてゐたのを、學生監に見つかつて停學處分を享けた。生意氣と見られれば途方もなく生意氣に相違なかつたらうが、終ひには墮落呼はりをされるに至つては私も餘程憂鬱にならずには居られなかつた。そして、學期末になると、體操の點が戍[#「戍」はママ]といふ最下等であつた。開校以來の出來事だ左うであつた。作文の丁は默頭けるのだが、さすがに體操の落第點といふのは、努力の仕樣もなく、途方に暮れるうちに、私は益々それが馬鹿々々しくなつて、號令をかけるのさへ嫌ひになつた。體操の教師は二人ゐたがTさんといふ錐のやうな眼の休職曹長が非常に私を憎んだ。どういふ意味か知らないがT先生はジヤツコラといふ綽名で、箱のやうな感じで、歩調の試驗だなどといふと、私ばかりを大勢の前に引き出して、やれ踵が二秒早く降り過ぎたの、脛がもう何ミリ前へ伸びぬからとかと飽くまでも難癖をつけて、他の者の十倍も長く歩かせるのだが、そんなにされれば益々氣持が上つてしまつて、思はずフラフラすると先生は堪らぬ罵聲を擧げて鞭を鳴らした。そして、これを見よと叫んで、自分の歩調の模範を示すのであるが、私には決してその差別が見わけ難かつた。私は、これほど人に憎まれた經驗を未だに比ぶべきものを知らない。――私は終ひにこれは何うも自然に任せるより他はないと觀念して、徒手體操の時になつても、決して力が入らぬやうな動作になつてしまつた。前腕ヲ平ラニ動カセ、オイツ! とか、首ヲ前後左右ニ曲ゲ――など割れるやうな號令の許に、あはや顎のかけがねが脱れんばかりな仁王のやうな大きな口をあけて、オイチ、二ツ、などと絶叫しながら、腕を力一杯に折つたり曲げたり、首などは石ころのやうに亂暴にあつちへ向けたりこつちへ曲げ倒したりして、その勢ひの最も獰猛なやつが甲上だなどといふT先生の訓練法に、私は自づと逆はずには居られなくなつた。先生は私の體操振りを目して、クラゲのやうだとか醉拂の態だとかと憤つて、腕が拔ける程引つ張つたり、首根つこを掴んで振り回したりしたが、責められれば責められる程否應なく私の動作は手應へもなく亡靈と化した。今にして思へば、私のあれらの體操振りは寧ろ現代的なる方法を髣髴する概があつたと思はれるのだ。今では何處の學校や海兵團の體操を見たつて、あんな馬鹿臭いのはありはしない。あんな體操なぞは凡そ肉體に不自然なる激動を與へるのみで終ひには精神作用までをも最も偏頗なる小
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