やうに狎らされてゐたので「君の意見はそれはそれとして一廉であり……」とか「意志の自由に於いて……」とか「誰が誰を掣肘出來るものか……」などといふ言葉が悉く絶大なる美しい響きを持つて感ぜられた。要するに、青葉の窓下で純粹な夢を語り合つてゐる二人の人物が物珍らしくプラトニツクに映じたのであらう。私は歸りがけにWのネクタイピンを買つた。
 ところが私は何とも迂濶なことには、二三日經つてはじめて學校へ行き、はじめて時間割を見て、思はずアツと驚いた。こゝにも例の體操と作文の科目があつて、出席して見ると、やはり黒板に「故郷に入學を報ずる文」といふやうな題が出て私は一行も書く氣になれず、また體操に出て見ると、氣を付ケ! 番號! などといふ嚴めしい號令がかかつた。そして、その掛聲から恐るべきTさんの錐の目が光つた。Tさんの聯想さへなければそんなに驚かなかつたのであるが、あの歩調の亡靈は飽くまでも私に絡みついて、私の脚はすくんだ。學年末の通知表を見ると作文と體操が、〇點と〇點で落第だつた。學校に入つて初めて口を利いたのは故柏村次郎であり、次にクラス會が大久保の方で開かれた時淺原六朗と知り、間もなく岡田三郎、吉田甲子太郎、下村千秋などに出會つた。英語では中學でこりてゐるので益々臆病になり、何も今はもうそんな必要もないのに、事更に知らぬ振りをして、輪講などといふものの順番があたると、息を殺して決して立ち上らなかつた。「出席を呼んだ時にはたしかに返事があつたのに?」日高先生は屡々首を傾げられた。ところが私たちの中學とは違つて、ミセス・ケイトの會話の時間などには自ら進んで立ちあがり勇敢にまくし立てる學生もあり、中學生のやうに誰も彼を目して生意氣だなどといふ者もないのは私を安心させたが、酷い目に遇つた習慣といふものは因果なもので、私は單なる朗讀の番でも口を開くのが厭だつた。然し強情にそれを固守して、五年も六年も經つうちに、ほんたうに出來なくなつてしまひ、やがては必要上からも斯る手段を講ぜずには居られなかつた。ただ、たつた一遍豫科の二度目の一年の時、ケイト先生の自由英作文といふので滿點を貰ひお前は外國の中學を出たのか? と訊ねられて以來折々廊下でつかまつたが、二年目には先生は商科へ移られて御挨拶の折もなく、その頃は吾家へ歸つても親父はまたヨーロツパへの長い旅へ出て不在であり、碧眼の娘は歸國してミセスになつて居り、私は母や祖母へ金の追加を乞ふ書簡文を書くことがぼつぼつと巧みになつて、市村座の芝居などに現を拔かし、六代目やハリマ屋の聲色をつかつた。本郷にゐた叔父が人形町に開業したので一緒に移り、叔母の從妹にあたる娘と芝居を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つてゐたが彼女が嫁いでからは妙に寂しくなつて早稻田の下宿に移ると、益々母への書簡は巧妙となつた。そして、私はその娘に夥しく輕蔑されて失戀するといふやうなことばかりを空想した短篇などを書きはじめた。柏村、岡田、淺原、吉田、下村などと一廉の文科生振つた口を利くやうになつたが、自分の文學的教養を考へると内心大變に不安であつた。非常なるトルストイアンで特待生である吉田は芝居のプログラムばかりが散亂して英語の本など讀みもしないやうな私の机のまはりを苦々しく見廻して、お前は好くそんな態度で生きて居られるな! とほき出し、小六ヶしい英單語を會話の中へ加へて、どうだ解るまいと悸かすのだが、その發音と素振《ジエスチユア》が餘り物々しく技巧的過ぎて解らず、私は英語は嫌ひで出來ないのだから文句の中にそれを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入せずに喋舌つて呉れとをがんだ。嗤はれても當然のことと思つてゐるので反感も覺えなかつたが、兎も角自分も隨分と遲れてゐる文學的教養を付けなければならないと考へても、何から讀んで好いのか、また何んなものが好きやら嫌ひやらも解らず、と云つて今更そんなことを友人に訊くのも間が惡いので、思案の揚句、凡ゆる意味で世界の初めから出發しなければならないと思ひ立ち、眞夜中に坐り直して「太初に言葉あり」と讀みはじめた。これが文學に關心を持ち出してからの太初の讀書で、混沌哲學からソクラテス、プレトーン、アリストテレス、エピクテータス、セネカ、パスカル――そしてシヨペンハウエルとすすんで、稍々夢中の度を増したが、一向文學的の世界へ手懸りを見出す餘裕もなく、讀書に關する話題などは誰の前にも持出せなかつた。そんな間に、それでもぼつぼつと書いてゐた短篇をゲーテ研究の柏村に讀ませて添削して貰つてゐたが、或日彼が、何うも俺よりお前の方が文章が巧い(と聞いた時には私は實に驚いた)やうだから俺の譯した「ヘルマン・ドロテア」を讀んで見て呉れと云ふのであつた。何ういふわけか知らないが
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