俺はお前のものを讀むと可笑しくなつて仕樣がないと彼は腹を抱へて、私が見せたがらないノートのものなども讀み、反つて下書の方が面白いと云つた。笑はれると私は困つて赧くなつた。「ヘルマン・ドロテア」を讀んでから英譯のゲーテ全集を買つた。プレトーン以降の思想が歴然と影響されてゐるのを見て私の胸は異樣に震へた。その頃、小學中學からの仲間であつた鈴木十郎が受驗生だつたのを私が無理に早稻田の文科へすすめた。そして二人は毎日朝から夜中までゆききして喧嘩をしたり、二人雜誌をつくらうなどと興奮しながら、鈴木が私の五倍もの好劇生だつたので、一時休息してゐた芝居が亦私の上にも復活して、やがて二人は入質といふ術まで覺えて切りと遊びまはつたが、鈴木は稍ともすれば私の芝居の觀方その他が野暮だといふことにはじまつて稍ともすると、彼は疊を叩いて非常に憤激して終ひには涙を滾した。私もそれに伴れて震へて悲しんだ。そして夜遲く別れて下宿に歸ると、鈴木に見せる爲の小説を書くのであつた。朝目が醒めると彼は既に私の枕元に坐つて原稿を讀み、「おお」「おお!」と挨拶するのであつたが、その瞬間の彼の表情で私は、前夜自分の書いたものの及落を素早く感ずるやうになり、私が、おお……と云つても彼が憤つとしてゐる氣色であると、階下に顏を洗ひに降りる時脚がカツ氣のやうに重かつた。彼は評論家を念とし、いつの間にか私は、小説の仕事こそ何よりも自分には甲斐があると考へるやうになつたのである。憤つてばかりゐたが、私にはつきりと左ういふ夢を與へて最も苛責なき鞭韃を加へたのは彼が最初であつた。彼は現在、歌舞伎座の支配人になつて居るが、相變らず折々の會見や手紙で、私の脚をカツ氣にさせたり、Scout's pace に走らせたりしてゐる。御存知には違ひなからうがスカウツ・ペースといふのは一哩を十分強で驅るハイキングの術語である。因みに彼との二人雜誌は後に詩と短歌を主にして「金と銀」と題し、半年あまりも續けたが他方面には寄贈しなかつた。いにしへのもののはなしにありときく、黒髮ばかりあやしきはなし――といふのはあの頃の彼の快詠であり、何かの雜誌(?)に吉井勇の選で一等をとり、ゆき暮れて神樂の太鼓早びよう子――といふのは、後にも先にもたつた一つの私の詠草であつたが、それは金と銀にも載せなかつた。
 その後柏村は、吉田や長谷川浩三と共に「基調」、岡田は「地平線」、私は卒業の後に淺原と下村にさそはれて「十三人」、鈴木は同級の者達と「象徴」、等の同人雜誌に分れたが、私は一年遲く入つた鈴木との交遊の爲に前後三級に渡つての幾人かの人達と文學を語り興奮を覺えたものの、文學とのはじめのきつかけがああいふ始末であるのが内心氣拙く、時には生意氣さうなことも口にしたが、いつまで經つても他の者の方が悉く先輩に見えて、努めても議論などは出來なかつた。稍ともすれば己れの弱小のみを持つて回すといふ風な野暮つたさが、表現の上に度強くなり勝ちなのは何うやら飽くまでもその出發點の雲行に起因したに相違なかつた。で私は又、日本橋へ戻つて叔父の知合ひの毛織物輸入商のオフイスに寄宿して餘念もなくタイプライターなどを叩いてゐるうちに「十三人」の第二號に、學生時代に書いたもののうちから鈴木に選ばれた「爪」といふ小篇が載つたのを偶然にも未知の島崎藤村先生に御手紙で讃められ「新小説」の新進作家號に紹介された。更にその小説を機會に中戸川吉二を知り、雜誌「人間」へ紹介され、また一、二年置いて「文藝春秋」や「新潮」に掲載される機會を得、それは二十六七歳の頃であつた。「新潮」の「熱海へ」といふのが評判が惡く、もう駄目かと思つてゐたところ、二十九の頃になつて中村武羅夫氏に會ふと、あれを讃めて下さり、非常に意外な氣がしたと同時に、漸く將來に對して迷妄が深かつた折から、グツとする態の感激を覺えた。そして中村氏をはじめ久保田万太郎氏や故葛西善藏氏に多くの鞭韃を與へられながら、兀々と書くうちに善藏氏の紹介で知遇を得た「中央公論」の故瀧田哲太郎氏に認められ激勵の手紙を頂いたり、幾度か御馳走にあづかつたりした。瀧田氏は、ほんのり醉はれると高島屋や吉右衞門の聲色を聽かせて下され、私にも何か演つてと所望されるのであつたが、私は十年前に本郷素行氏の宿を訪れた時のやうに堅くなつて白黒してゐるばかりだつた。
 私の文學的自叙傳は、このあたりから書きはじめるべきと思ひ、前述の項は出來得る限り壓縮しようと苦心したのであるが、自發的に目醒めなかつた私の如き場合では、どんな少年時代の一片をとりあげても、自然と文學へ赴くより他に結局道もなかつたかのシルエツトが感ぜられて特に文學的と區切るべき處置に迷ふばかりであつた。あれこれと思ひ惑ふうちには、文章が不得意なる「作文時代」に戻つたかのやうに生氣を失ひ、
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