u地平線」、私は卒業の後に淺原と下村にさそはれて「十三人」、鈴木は同級の者達と「象徴」、等の同人雜誌に分れたが、私は一年遲く入つた鈴木との交遊の爲に前後三級に渡つての幾人かの人達と文學を語り興奮を覺えたものの、文學とのはじめのきつかけがああいふ始末であるのが内心氣拙く、時には生意氣さうなことも口にしたが、いつまで經つても他の者の方が悉く先輩に見えて、努めても議論などは出來なかつた。稍ともすれば己れの弱小のみを持つて回すといふ風な野暮つたさが、表現の上に度強くなり勝ちなのは何うやら飽くまでもその出發點の雲行に起因したに相違なかつた。で私は又、日本橋へ戻つて叔父の知合ひの毛織物輸入商のオフイスに寄宿して餘念もなくタイプライターなどを叩いてゐるうちに「十三人」の第二號に、學生時代に書いたもののうちから鈴木に選ばれた「爪」といふ小篇が載つたのを偶然にも未知の島崎藤村先生に御手紙で讃められ「新小説」の新進作家號に紹介された。更にその小説を機會に中戸川吉二を知り、雜誌「人間」へ紹介され、また一、二年置いて「文藝春秋」や「新潮」に掲載される機會を得、それは二十六七歳の頃であつた。「新潮」の「熱海へ」といふのが評判が惡く、もう駄目かと思つてゐたところ、二十九の頃になつて中村武羅夫氏に會ふと、あれを讃めて下さり、非常に意外な氣がしたと同時に、漸く將來に對して迷妄が深かつた折から、グツとする態の感激を覺えた。そして中村氏をはじめ久保田万太郎氏や故葛西善藏氏に多くの鞭韃を與へられながら、兀々と書くうちに善藏氏の紹介で知遇を得た「中央公論」の故瀧田哲太郎氏に認められ激勵の手紙を頂いたり、幾度か御馳走にあづかつたりした。瀧田氏は、ほんのり醉はれると高島屋や吉右衞門の聲色を聽かせて下され、私にも何か演つてと所望されるのであつたが、私は十年前に本郷素行氏の宿を訪れた時のやうに堅くなつて白黒してゐるばかりだつた。
 私の文學的自叙傳は、このあたりから書きはじめるべきと思ひ、前述の項は出來得る限り壓縮しようと苦心したのであるが、自發的に目醒めなかつた私の如き場合では、どんな少年時代の一片をとりあげても、自然と文學へ赴くより他に結局道もなかつたかのシルエツトが感ぜられて特に文學的と區切るべき處置に迷ふばかりであつた。あれこれと思ひ惑ふうちには、文章が不得意なる「作文時代」に戻つたかのやうに生氣を失ひ、
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