なると屹度お宅の噂が人気をさらつてしまふ……なにしろ評判の器良好しで……」
 僕は、そんな会話に耳を傾けてゐるうちに、何とも名状し難い不安な心地に襲はれて来て、もう一刻も其処に凝つとしてゐられなくなり、物をも云はずに慌てゝ務先へ引き返したことがある。
 真夏の蒸暑い真昼時であつた。この朝は幾分遅れて出勤したのであつたが、例に依つてA子の部屋を視守つてゐたが(寝台《ベツド》の様子で見ると、一刻前に起き出て、取り散らかつたまゝの様子だつたから、直ぐに現はれるであらう――何時も彼女は自分で寝具を取り片づけるのが常である故。)何時迄経つても現はれないのである。鳥が飛び出した後の籠の中のやうに、取り乱れたまゝの部屋であつた。主の居ない部屋を見守つてゐるのも別種の犯罪的好奇心などが伴つて――おゝ、枕元に書物が一冊翻つてゐるな、何の本だらう? とか、側卓子の上に珈琲茶碗が! おや、二つある! 兼書斎ではあるが、娘の寝室など訪れた者があるのかな? 若し前夜のことゝすれば、後片づけの間もない程の夜更けか! ……そんなやうな痴想に暫く耽つてゐたが、何時まで経つても娘の姿は現はれようとしないので、僕は苛々として彼方へ出向いたのであつた。
 ――が、再び引き返して、眼鏡を執りあげて見ると、丁度其処に外出先から娘が戻つて来たところであつた。A子と一緒に入つて来たのは、彼女が常々余程愛してゐると見えて二人が此処に現はれると何時までゝも抱き合つたり、頬をすり寄せて睦言に耽つたりするのが慣ひのA子の妹のやうな女学生のR子(と勝手に僕が称び慣れてゐる)であつた。
 女学生だつたので僕は安心した。あの学生ならば、A子が眠つてゐるところにでも何時でも平気で入つて来るのだ。
 二人はラケツトを携へてゐた。おそらく学生が朝夙くA子をテニスに誘ひに来て、二人は此処で珈琲を喫んでから出掛けたに相違ない。
「馬鹿な!」
 と僕は思はず呟いで自嘲の舌を打ち鳴らしてしまつた。「珈琲茶碗に飛んだ疑ひなんて掛けて、馬鹿を見てしまつた。俺は余ツ程何うかしてゐるぜ。」
 二人の者は、大急ぎで運動シヤツを脱ぎ棄てゝ、寝台《ベツド》に倒れたまゝ稍暫らく風に吹かれながら空を見あげて歌などうたつてゐる様子であつたが、間もなく起きあがるとタオルを羽織つてバスへ出て行つた。

     四

(理学士が観た半年もの間のA子の生活に就いて
前へ 次へ
全8ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング