父を売る子
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)止絶《とぎ》れる
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)鉞太郎|英福《ヒデトミ》
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(例)[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)暫く遊べ/\。
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彼は、自分の父親を取りいれた短篇小説を続けて二つ書いた。
或る事情で、或日彼は父と口論した。その口論の余勢と余憤とで、彼はそれ迄思ひ惑うてゐたところの父を取り入れた第一の短篇を書いたのだ。その小説が偶然、父の眼に触れた。父親は憤怒のあまり、
「もう一生彼奴とは口を利かない。――俺が死ぬ時は、病院で他人の看護で死ぬ。」と顔を赤くして怒鳴つたさうだ。だから彼は、それを聞いて以来、往来で父の姿を見かけると慌てゝ踵を回らせた。彼等はひとつの小さな町に住みながら、父と母と彼と夫々別々の家に住んでゐた。
それ故彼は、もう父親には破れかぶれになつてゐたから第二の短篇は易々と書いてのけた。その上、今も彼が二ヶ月ばかり前から書きかけてゐるのは、またも父親を取り入れたものだつた。それが若し滞りなく出来あがつたら、彼はそれに「父を売る子」と称ふ題名を付ける気でゐる。――次の話は彼が未だその第一の短篇を書かなかつた頃のことである。
[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
その晩も彼と父とは、酒を酌み交しながら呑気な雑談に耽つてゐた。晩春の宵で、静かな波の響きが、一寸話が止絶《とぎ》れると微かに聞えた。――父の妾の家の二階だつた。
「貴様の子供はいつ生れるんだ?」
忘れツぽさを衒つて、父は彼にそんなことを訊ねた。二人とも、もうイイ加減酔つて、口角をそろへて親類の悪口を云ひ合つてゐたが一寸止絶れたところだつた。
「六月ださうだ。」と彼も父の態度を模倣してわざと空々しく呟いた。
「いよいよ親父になるのか、貴様が!」
父はさう云ふと、傍の女を顧みて仰山に哄笑した。
「そして――」と彼は云つた。この阿父さんは――と云ふのは具合が悪かつたので、眼だけで父を指摘して、
「いよいよお祖父《ぢい》さんになるんだよ。」と云つた。
「ばかア――」
でれでれした太い声でさう云つた父は、云ひ終つてもあんぐりと口を開けた儘、笑ひ顔で彼と女とを等分に眺めた。
「貴様は幾つだ?」
「二十七だ。」
「未だ二十七か。」
「阿父さんは空つとぼけるから厭になつちまふ。」
「だが、二十七は……一寸早えな!」
「僕も内心大いに参つてゐる。」彼はさう云つて、安ツぽく首を縮めてにやにやと如何にも愚かし気な苦笑を浮べた。
「尤も貴様が生れた時は俺は、何でも二十……」
「えゝ、と?」
彼は眼をつむつて額を天井に向けた。五十一から二十七を引くと幾つ残るか? を考へたのだが、容易にその答へが見出せなかつた。
「二十――二三だらうよ。」
「随分早えな! ハッハッハ。」
彼は、今更の如く軽い心易さを覚えて、音声だけ景気好く笑つた。――尤も斯ういふ調子にならなければ、この家の変に乱れた空気と調和しないので彼は殊更に甘い粗暴を振舞つてゐるのだつた。親爺はともかく倅の態度が、それにしても過ぎたることを思ふと、これは決して他人には見せられない光景だ――と彼は思ふのだつた。初めのうちは彼達の対談をはた[#「はた」に傍点]の女達も不思議さうに眺めたが、今では逆に慣々しくなつてゐた。おそらく彼の母は、他所で彼等が斯んな振舞ひをしてゐるとは想ひも及ばなかつたに違ひない。
「この頃俺は毎晩毎晩酒にばかし酔つてゐて自分の仕事は何もしない。これぢやどうもいけない。皆なは俺が東京に居るうちはとても仕様のない暮しばかりしてゐたやうに思つてゐるが、この頃みたいに斯んなにだらしがなくはなかつた。第一酒などをそんなに飲まなかつた――」
ふと彼はそんなことを口走つた。少々怪しくなつて来たぞ――彼は自分をさう思つた。
「皆な親爺が悪いから、といふわけかね。止せよう。」
「阿父さんも仲々厭味を云ふことが上手になつた。」
頭の鈍い父と息子は、こゝでさもさも可笑しさうにゲラゲラと笑つた。
「だつて――」と父は笑ひが止まると、一寸白々し気に云つた。「貴様は今は仕事がないんぢやないか。夏あたりから例の会社に出る筈なんだから、まアもう暫く遊べ/\。」
「あゝ、さうだね。」と彼は軽く点頭《うなづ》いた。彼が心では、どんなことに没頭してゐるのか? まして文学に思ひを馳せてゐるなんてことは父は少しも知らなかつた。――下らねえ月給取りなんて止せ止せ、それよりも近く俺が材木会社を初める筈だから、そこに勤めろ――常々父はさう云つて、そんなことでは励まされない彼を励ました。いろいろ奔走もしてゐるらしかつたが、彼は父の仕事は解りもせず、寧ろ信用してゐなかつたので、上の空で聞き流すだけだつた。
「今日は珍らしくお客がないね。」と彼は女に訊ねた。会社に関係する人々が大概この家に出入してゐた。さういふ相談をするには、どうしても斯ういふ家を持つてゐないと都合が悪い――父は彼の母によくそんなことを話して、嫉妬深い母親の心を却つて苛立せて、閉口することが多かつた。
「いゝえ、もうさつきまで三人いらしたんですよ。」と云つて女は含み笑ひをもらした。「若旦那がいらつしやるといふことを聞いて皆さんお帰りになつちやつたんです。」
「若旦那、男前をあげたぞ。」
父はさう云つて彼をからかつた。五六日前彼は、母と細君に煽動されて、酒の勢ひで来客中のこの家に怒鳴り込んだのだ。
「此間はね。」と彼はテレ臭さうに、女に弁解した。「ありやア大芝居なんだ。……だつて阿母と周子の奴が煩くてやり切れなかつたんだもの……」
「お前えの女房もおつ[#「おつ」に傍点]に気取つてやがるね。俺嫌ひだア!」
父は、彼の母のことを既にのけ者にして云つた。
「俺も嫌ひになつたア。」と彼も云つた。「鼻が低くて、眼がまがつてゐる!」
「口が達者で、お上品振りだ。」
そこに二人坐つてゐる若い芸妓達が、口をそろへて「ほんとに此間は、随分妾達も怖かつたわ。」――「若旦那は、お口は拙いけれどどこかお強いところがあるわね。」
彼女達が軽蔑してさう云つたのも知らず彼は、これは俺の威厳を認めたに違ひない――と早合点して、一寸好い気持になつて、
「ハッハッハ。」と鷹揚な作り声で笑つた。そして痩躯を延し、胸を拡げて、
「おい、お酌をしろう。」と眼をかすめて命令した。そして尚も自分の身柄も打ち忘れて、太ツ腹の男らしさを装ひ、
「うむ、お前達は仲々別嬪だな。」などとお神楽の役者のやうな見得を切つて点頭いた。
「ひとつ取りもつてやらうか。」彼の父は、彼の馬鹿さ加減に擽られて堪らぬらしく、失笑をおさへて彼を煽てた。「ほんとうだよ、女房なんてにこびりついてゐるのは……」
「駄目?」と彼は、皮肉なつもりの眼を挙げて、にやりと父の眼を視あげた。さういふ言葉を父に吐かせてやらうと思つてゐたのだ。
「親に意見か!」
父は、ペロリと舌を出して平手でポンと額を叩いた。――彼は、厭な気がして憤《ぷ》つと横を向いた。すると、眼眦《まなじり》が薄ら甘く熱くなるのを感じた。
「親爺は……親爺は……」この俺の酔ひ振りがいけないんだ、これが失策のもとなんだ――さう気附けば気附く程、彼の上づツた酔の愚かな感傷はゼンマイ仕掛けのやうに無神経にとびあがつた。
「親爺は馬鹿だア!」
女は、居たゝまれなささうな格好で凝《ぢつ》と膝を視詰めた。
「俺は親爺の真似はしねえぞう。」と彼は更に口を歪めて叫んだ。だが、さう云ふと同時に心の隅が極めて静かに――おツと、これは云ひ過ぎた。御免々々、あつぱれな口は利けぬ、――などと呟きながら、そしてたゞイイ加減に――まア、いゝさいゝさ――と誰の為ともなく吻ツとした。
「おい、よせ/\、解つてる/\。」彼の父は手を挙げて彼を制した。
「解つてゐればこそ、か。」彼は自分でもわけの解らぬ独言を、憎々しく洩した。――父は一寸、心から気持の悪さうな表情をした。
だが直ぐに気持を取り直して、話頭を転じさせるやうに、
「貴様の子、俺の孫には、何といふ名前をつけようかね。」と云つた。彼は、救はれた気がしたには違ひなかつたが、そんなに想像を楽しむと云つた風な言葉を、嘗て父の口から聞いた試しがなかつたので、擽つたく情けなかつた。で、ぶつきら棒に、
「だつて男か女かも解らないし――」と手前勝手な不平顔を示した。
「多分男だよ。尤も俺は両方考へてゐる。」
彼の心は、容易くほぐれた。
「嘘だア!」彼は、女が親しい友達に厭がらせでも云ふやうに、狡猾にへつらつた。
「いゝえ、此間うちからいつもそんなことを云つてゐらつしやるんですよ。」と女が傍から加勢して、一寸彼の父をテレさせた。
「何でも家ぢや長男には英の字をつけなければいけないんだつてさ。」父は、軽く慌てゝ、それでもう孫を男と決めて、ごまかさうと試みた。
「阿父さんはしきたり[#「しきたり」に傍点]が大嫌ひなんでせう。」
「此頃、少し俺もかつぎ[#「かつぎ」に傍点]家になつた。」
「第一阿父さんや僕は、長男だが英ぢやないぜ。」
「英の字をつけないと碌な者にならないんだつてさ。」さう云つて彼の父は、彼の顔を見た。――そして二人は思はず噴き出した。
「さう云つて見れば弟の方が僕より質が好ささうだね、学校なども何時も優等で――」
「さうだなア、ともかく今度は間違ひなく英の字を付けようぜ。」
「さうしようかね。」彼もその方が好ささうな気がした。「おぢいさんの名前は鉞太郎|英福《ヒデトミ》だね。」
「鉞太郎か!」彼の父は久し振りで自分の父親の名前を聞いたといふ風に斯う繰り返したが、直ぐに妙なセヽラ笑ひを浮べた。
「おぢいさんは、どうだつたの、僕にはとても優しかつたが――」彼は、そんな出たらめな質問を発した。
「俺とはとてもお派が合はなかつた。」
「ぢや品行方正なんだらう。」
「臆病で、ケチ臭さかつた。」
「その前は作兵衛英清だね。」
「うむ、さうだ。」
「作兵衛英清を、阿父さんは知つてるの?」
「知らない。」
「作兵衛英清は少しは偉かつたんぢやないの?」
「どうだか……」話が少し抽象的になつてくると、源は自分にあるくせに彼の父は直ぐに退屈な顔をした。彼の母が、よく意味あり気な夢の話などをすると返事もしなかつた。その点彼はいくらか母に近かつた。
「だつて僕の幼《ちひさ》い時分は、正月などにはきつとおぢいさんが、僕達を作兵衛英清の懸物の前に坐らせてお辞儀をさせたぜ。」
「チョツ、下らねえ。」
「英清の前は――」
「よくお前えはそんなことを知つてるな。」
彼は得意気に、
「定左衛門英経。」と云つた。
「ふゝん――。どうでもいゝや。作兵衛英清は何でも下ツ瑞の剣術使ひだとよ。」
「それぢや英の字もあんまり当にならない――となるかね。」彼は、父があまり好い気な冷笑をして独り好がり過ぎる気がしたので、その初めの提言をからかつてやつた。
「まア、いゝさ。そんな夢みたいな話は止さうぜ。」父の酔は、がつくりと一段高まつた。
「そこへ行くと俺は偉いぞう。」
「そこへ行くと――とは怪しい言葉だ。」彼も次第に酔ひが増して、しみつたれの酔つぱらひらしく言葉尻にからまつた。
「いや俺は日本人たア量見が違ふんだ。頭が世界的なんだ。それを……だ。貴様の阿母の兄貴なんて、第一俺を馬鹿にしてゐる。俺はお稲荷様見たいな位ゐは無いよ、だが大礼服の金ピカや勲章が何でえ、△△サーヴァントぢやないか、えゝおい……だからだ……」
「僕はまた、さういふ世界的は滑稽に思ふよ。金ピカだつて奇麗だから、無いよりはいゝと思ふね、月給取を軽蔑したり、何とかサーヴァントだとか何とか、何だつていゝぢやないか……と、そんなことは云ふものゝ僕は何も保守的な若者のつもりぢやありませんぜ。」
「俺ア、肚は社会主義だア。」
「どうも阿父さんの肚は小さいやうだ。」
「いや、貴様よりは大き
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