い。」
「比較して僕は云つたんぢやない、批評したのさ。」
「あゝもう俺は解らん/\。――だからだね、いや、だから[#「だから」に傍点]も何もないが、さういふわけでさ、俺は家《うち》のつながり[#「つながり」に傍点]は皆な虫が好かない。俺が死んだつて泣く奴なんてあるまいよ。たゞ、だね、貴様も馬鹿でさ、俺よりまた馬鹿だから、俺が死んで困るのは貴様だけだぞ。」
「いくら酔つたつてそんな下手なことを云はれちや閉口だ。気が遠くなる。」
「それが馬鹿だ、といふんだ。」
「あゝ、気分が少し暗くなつた。」
「気分とは何だい。貴様の頭は提灯か?」
「うん、提灯だ。」
「提灯とは驚いた。不景気な奴だな! サーチライトにしろ。」
「さうはいかない、生れつきだもの。」
 さう決め込んでしまふのも因循すぎるか? 彼は斯んな冗談にふとこだはつて見ると、生れつきなんていふ言葉を用ひたことが、そして若しほんとにそんな気を持つたら大変だ――と思つた。
「ところで、もう一遍子供の名前だがね。」と彼の父は、傍のつまらなささうな女に酌をされながら酔つた体をゆり起した。
「俺の名前の雄をとつて英雄《ヒデヲ》としようか? 男だつたら。」
「英雄《エイユウ》と称《い》ふ普通名詞があるんで弱る。」
「ぢや、お前の一《イチ》を取つて英一とするか? だがそれぢや弟の英二郎と音《オン》がつく[#「つく」に傍点]からな?」
「雄《ユウ》を取るのと一《イチ》を取るのと、どつちが縁起[#「縁起」に傍点]が好いだらう?」
「さて、さうなると?」さう云つて彼の父は余程の問題を考へるやうに首をかしげた。彼も何か漠然と考へた。酔つた頭が、風船のやうにふはふはと揺いでゐるのを微かに感じた。
「それはさうと、今晩はどう? 帰る?」彼は、いつもの通りこの夜も母の手前を慮つて父親を伴れ帰す目的で此処に来たことを思ひ出した。
 父は、居眠りをしてゐた。彼は、父が孫の名前を案じてゐるのかと思つてゐたが、父は慌てゝ眼を開くと、
「どつちが好いだらうな? だが、まアそのことは考へて置かうよ。」と呟いた。
「いや、もうそのことぢやないんだよ。――今晩家に帰るか、帰らないかといふこと。」
「今晩は遊んでしまはうや、いゝよ、気になんてしないだつて!」彼の態度が生温いのを悟つて、父はさう云つた。
「さうしようかしら。」
「さう/\、家に帰るのは閉口だ。」
「俺も一寸今日は……」
 その時父の傍の女が、何か用あり気に席を離れて階下へ降りて行つたのに彼は気附くと、その後ろ姿を見送つてから、
「あんな女何処が好いんだらう。」と云つた。
「あれは少々抜作だ。加《おま》けに面も随分振つてゐるね。」父は大きな声で笑つた。斯う云ふものゝ云ひ方も、斯うあくどく繰り返しては愛嬌にもならない、厭味だ――と彼は思つて、自分にもさういふ癖があつていつか友達から大いに非難されたことのあるのを思ひ出した。
「阿母は偽善者だ。」
「阿母さんは、阿父さんのことを口先ばかりの強がりで、心は針目度のやうだと云つてゐたよ。」
「これから出掛けて、飲まう。」
「うむ、出掛けよう。」と彼も変に力を込めて云ひ放つた。だが父が先に立つて此方を甘やかすのに乗ずると、後になつて蔭で面白がつて彼の行為を吹聴することがあるので、彼はそれを一寸憂慮した。
「だが、今日のことは阿母さんには黙つてゐてお呉れ。」彼は低い声で頼んだ。
「誰が喋るものか、馬鹿野郎!」父は怒鳴つてふらふらと立ちあがつた。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 庭の奥の竹藪で、時折眼白が癇高く囀つてゐた。周子は縁側の日向で、十日ばかし前からやつと歩き始めた子供の守をしてゐた。梅の花びらが散りこぼれてくると、子供はいかにも不思議さうに凝《ぢつ》と立ち止まつて眼を視張つてゐた。周子はその態《さま》をしげしげと打ち眺めて、
「この子は屹度悧口な子供に違ひない。」と呟いた。そして思はず苦笑を洩した。何故なら彼女はさう思つた時すぐに――少くともこの子の父や祖父よりは――といふ比較が浮んだからだつた。
 彼女の夫は次の間の四畳半に引き籠つて、机の前で何やらごそごそと書物の音をたてたり、何か小声でぶつぶつと呟いたりしてゐた。彼はもう四五日前から、子供とも細君ともろくろく口を利かず自分の部屋にばかりもぐつてゐた。彼女は、彼が何をしてゐるのか無頓着だつた。この頃はあまり夜おそく帰ることもなく、酒に酔ひもしないので、清々といい位ゐにしか思つてゐなかつた。
 暫くすると四畳半で、
「えゝツ、くそツ!」と彼が何か疳癪を起したらしく、どんと机を叩くや、びりびりと紙を引き裂くのが聞えた。そして彼は、
「とても駄目だ。」と独り言《ご》ちながら、唐紙を開けてひよろ/\と縁側へ出て来た。
「どうなすつたの? 顔色が悪いわ。」彼があまり浮かぬ顔をしてゐるので、周子はお世辞を云つた。
「顔色が悪い? さういふ不安を与へるのは止して呉れ。さういふことを聞くと俺は何よりも悄気てしまふ。」彼は軽く見得を切つてイヤに重々しく呟いた。周子は笑ひ出したかつたが、彼の様子が案外真面目らしいので努めて遠慮した。
「悪いと云つたつて種々あるわよ。変に顔色がまつ赤なのよ。」
「英雄《ヒデヲ》のやうか。」彼は気拙さうに笑つて、子供を抱きあげた。
「何か書いていらつしやるの?」
 彼はうなづいただけで、横を向いた。その意味あり気な様子が、周子はまた可笑しかつた。それにしても此間うちから厭に不機嫌で、莫迦々々しい我儘を振舞つては、机にばかり囓りついてゐるが、一体斯んな男が何んなことを考へたり、何んなことを書いたりするんだらう……さう思ふと彼女は、どうせ碌なことではあるまいといふ気がすればする程、間の抜けた彼の顔に好奇心を持つた。すると彼女は、一寸彼を嘲弄して見たい悪戯心が起つて、
「創作なの?」と訊いた。
 周子は彼がおそろしく厭な顔をするだらうとは予期してゐたにも係はらず、彼は、おとなしく、そして心細気にうなづいた。
「小説――と云つてしまふのは、おそらく狡猾で、下品なまね[#「まね」に傍点]だらうが、……」彼は聞手に頓着なく、あかくなつて独りごとを始めた。「俺は此間うちからいろいろ自分の家《うち》のことを考へてゐたんだ。親父のこと、阿母のこと、自分のこと、そして英雄《ヒデヲ》のこと……」
「あなたでも英雄《ヒデヲ》のことなんか考へることがあるの?」
「黙れ! 考へると云つたつて……」と彼は険しく細君を退けたが、今自分が云つたやうに重々しくは、家のことだつて親父のことだつて阿母のことだつて……そんなに考へてゐるわけでもない――といふ気がしたが、
「主に親父のこと……」と附け足した。「そして到頭やりきれなくなつた。」
「何が?」
「貴様とは考へることの立場が別なんだから余計なことを訊くな――今、清々としてゐるところなんだ、やりきれなくて止めたので――」
「……」周子は、ぽかんとしてゐた。
 彼は、さう云つたものゝ、浅猿《あさま》しい自分の思索を観て、醜さに堪へられなかつた。たとへ周子の前にしろ、うつかり斯んな口を利いて、己が心の邪《よこし》まな片鱗を見透されはしなかつたらうか、などゝいふ気がして更に邪まな自己嫌悪に陥つた。……あゝ、自家のことなんて書かうとする不量見は止さう/\……彼は、さう心に誓つた。今迄彼は、稀に小説を書いたが、それは主に幻想的なお伽噺とか、抒情的な恋愛の思ひ出とかばかりだつた。だが此頃それには熱情が持てなくなつた。
 それならば止めたらよからう――彼は、斯う「新しい熱情」を斥けた。
「ちよつと家へ行つて来ようかな。」
「どつちの家?」周子は立所に聞き返した。彼が出掛ける時には、周子は必ずさういふ問ひを発するのだつた。そして若し彼が、親父の方だ――と云はうものなら、彼女はさながら夫の悪友を想像するやうに顔を顰めるのだつた。尤も彼が、出掛けるといふ時の目当は、大概父親の方だつた。
「阿母さんに一寸用があるんだ。」
「嘘、嘘。」と周子は笑つた。この邪推深さは酷く彼の気に喰はなかつたが、事実はうまく云ひあてられたので、
「嘘とは何だ。」とあべこべに如何にも無礼を詰るやうに叱つた。いや、阿母のところにも一寸寄るかも知れない――などと自分に弁明しながら。
「今日これから、あたしお雛様の支度をするんですが、手伝つて呉れない?」
「あゝお節句だね、もう。」
 彼は、嘘を塗抹した引け目を感じてゐたところなので、周子から見ると案外朗らかな返事を発した。「男の子なんだから、お雛様なんてをかしいぢやないか。」
「あたしよ/\。」
「ふざけるない。子供がることはみつともねえぞ。」
「あなたに買つて貰ひはしないから余計なお世話よ。」
 斯んな無神経な手合にかゝつては此方がやり切れない――彼は自分の鈍感も忘れて、愚かな力を忍ばせた。斯ういふきつかけで喧嘩をすることは、もう彼はあきてゐた。その代り肚で一層軽蔑するぞ――と決めた。これがまた彼の狡さで、ほんとは彼女の言葉を最初にきいた時は、雛節句の宵の女々しい華やかさに一寸憧れたのだつた。
「ぢや御馳走を拵へるのか?」
「お客様も二人ある筈よ。だけど肝心のお雛様がとても貧弱であたしがつかりしてるの。」
「お雛様なんて紙ので沢山だ。――それぢや阿父さんと僕もお客に招《よ》ばれようか。」
「お父さんは真平――。白状すると、怒つちや厭ですよ……、あなたもその晩は居ない方が好いんだが……」
「ハッハッハ……そんなことぢや俺は怒りはしないよ。その代り俺、あさつては昼間から阿父さんのところへ行くぞ。」
 英雄《ヒデヲ》はいつの間にか彼女の膝に眠つてゐた。
「ちよつと行つて来るよ。」
「また始まつた。」
 彼は、何か口実を設けて出掛けようと考へた。
「あゝ今日は珍らしく気持がさつぱりとした。」彼は、そんなことを云つて蒼い空を見あげた。「テニスに行かうかな。」
「テニスなら行つてらつしやいよ。」
「ぢや行つて来るよ。」
 彼は、しめた[#「しめた」に傍点]と思つて立ちあがつた。
「シャツがもう乾いてゐますよ。」
「今日は、ラケットの袋の中にパンツもシャツも容れて持つて行く。」
「怪しい/\。」と周子は云つた。コートに着物を着換へる場所がないので、いつも彼は家から外套の下に仕度をして行くのだつた。――彼は、思はず度胆を抜かれて、
「そんなら着て行かうよ。」とふくれて云つた。海岸の××といふ料理屋に東京のお客と一処に来てゐるんだが、其の人にお前を紹介したいから――といふ意味の使ひを父から彼はうけてゐたのだ。彼は、十日ばかり前父と一処の席で出会つた若いトン子と称《い》ふ芸者が好きになつて、またトン子に会へると思つて内心大いに喜んでゐたのだつた。そして斯ういふ機会の来るのを待つてゐたのだ。
 彼は、破れかぶれな気で、細君からパンツとシャツを受け取ると、情けなく、手早くそれを身に纏うた。
「ジャケツ? それとも外套?」
「和服の外套にしようかしら。」
 細君は笑つて相手にしなかつた。彼は本気で云つたのだ。
 彼は、頭がぼつ[#「ぼつ」に傍点]とした。ズックの靴を穿いて庭に飛び降りると、物置から自転車を引き出した。そして往来に出ると、ヒラリとそれに飛び乗つて真ツ直ぐな道を煙りのやうに素早く走つた。この儘、海岸の料理屋へ行くことを思ひきつたのである。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 最近彼は、また書きかけた小説「父を売る子」を書き始めた。一度不仲になつた父との関係が偶然の機会で、もとに戻つた。現在の感情だけに支配されてゐる此頃の彼は、もう「父を売る子」を書きつゞける元気がなくなつた。此間彼が出京する時の彼と父とは、この小説の第一節と殆ど同じ場面を演じて別れたのだ。「父を売る子」が書きつゞけられないので、出京後彼は、題は考へずにこの[#「この」に傍点]小説を書き始めたのである。三つの家のことを夫々書かうと思つたのだつた。そしてこれはもつと長くなるのだ。
 この小説の第二節の半ばまで、漫然と書いて、これからもつと鋭く父の
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