事を書かうとして、彼はペンを置いた。三月初旬の月の好い晩だつた。――前の晩友達と飲み過して、気持も落着かなかつた。
 彼は、その晩父の訃報に接した。
 脳溢血で、五十三歳の父は突然死んだ。

「父を売る子」は勿論、この生温い小説すら彼には続ける力が消えた。
「父のことは、もう書けさうもない。」彼はさう思つた。「張り合ひがない。」
「此頃君は事務怠慢か? さつぱり訪問に出かけないね。」
 最近雑誌をやり始めた彼に、友達が云つた。
「何となく気おくれがするんだ。」
「はツはツは、道理で此頃は酔ツぱらつても唱歌を歌はないと思つた。」
「うむ、さう云へばさうだ。」
「独り静かに酔ひ給へ、夜。それが一番君がフアーザアの冥福を祈ることになる。」
 親切な友達は彼にさう云つて呉れた。彼は、慌てゝ手を振つた。「いや、御免だ/\。もう二三日経てば屹度元気を出すよ。他愛もないんだ。俺なんて」
「父親小説は、もうお終ひか?」
「うむ、お終ひだ。」
 彼は、尤もらしく顔を顰めて、うなつた。
 それで彼は、この題の考へてない小説に、「父を売る子」を奪つてつけることにした。
 もう直ぐに父の四十九日の忌日が来る。
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