「ちよつと行つて来るよ。」
「また始まつた。」
 彼は、何か口実を設けて出掛けようと考へた。
「あゝ今日は珍らしく気持がさつぱりとした。」彼は、そんなことを云つて蒼い空を見あげた。「テニスに行かうかな。」
「テニスなら行つてらつしやいよ。」
「ぢや行つて来るよ。」
 彼は、しめた[#「しめた」に傍点]と思つて立ちあがつた。
「シャツがもう乾いてゐますよ。」
「今日は、ラケットの袋の中にパンツもシャツも容れて持つて行く。」
「怪しい/\。」と周子は云つた。コートに着物を着換へる場所がないので、いつも彼は家から外套の下に仕度をして行くのだつた。――彼は、思はず度胆を抜かれて、
「そんなら着て行かうよ。」とふくれて云つた。海岸の××といふ料理屋に東京のお客と一処に来てゐるんだが、其の人にお前を紹介したいから――といふ意味の使ひを父から彼はうけてゐたのだ。彼は、十日ばかり前父と一処の席で出会つた若いトン子と称《い》ふ芸者が好きになつて、またトン子に会へると思つて内心大いに喜んでゐたのだつた。そして斯ういふ機会の来るのを待つてゐたのだ。
 彼は、破れかぶれな気で、細君からパンツとシャツを受け
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