つた。……あゝ、自家のことなんて書かうとする不量見は止さう/\……彼は、さう心に誓つた。今迄彼は、稀に小説を書いたが、それは主に幻想的なお伽噺とか、抒情的な恋愛の思ひ出とかばかりだつた。だが此頃それには熱情が持てなくなつた。
 それならば止めたらよからう――彼は、斯う「新しい熱情」を斥けた。
「ちよつと家へ行つて来ようかな。」
「どつちの家?」周子は立所に聞き返した。彼が出掛ける時には、周子は必ずさういふ問ひを発するのだつた。そして若し彼が、親父の方だ――と云はうものなら、彼女はさながら夫の悪友を想像するやうに顔を顰めるのだつた。尤も彼が、出掛けるといふ時の目当は、大概父親の方だつた。
「阿母さんに一寸用があるんだ。」
「嘘、嘘。」と周子は笑つた。この邪推深さは酷く彼の気に喰はなかつたが、事実はうまく云ひあてられたので、
「嘘とは何だ。」とあべこべに如何にも無礼を詰るやうに叱つた。いや、阿母のところにも一寸寄るかも知れない――などと自分に弁明しながら。
「今日これから、あたしお雛様の支度をするんですが、手伝つて呉れない?」
「あゝお節句だね、もう。」
 彼は、嘘を塗抹した引け目を感じて
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