いさんの名前は鉞太郎|英福《ヒデトミ》だね。」
「鉞太郎か!」彼の父は久し振りで自分の父親の名前を聞いたといふ風に斯う繰り返したが、直ぐに妙なセヽラ笑ひを浮べた。
「おぢいさんは、どうだつたの、僕にはとても優しかつたが――」彼は、そんな出たらめな質問を発した。
「俺とはとてもお派が合はなかつた。」
「ぢや品行方正なんだらう。」
「臆病で、ケチ臭さかつた。」
「その前は作兵衛英清だね。」
「うむ、さうだ。」
「作兵衛英清を、阿父さんは知つてるの?」
「知らない。」
「作兵衛英清は少しは偉かつたんぢやないの?」
「どうだか……」話が少し抽象的になつてくると、源は自分にあるくせに彼の父は直ぐに退屈な顔をした。彼の母が、よく意味あり気な夢の話などをすると返事もしなかつた。その点彼はいくらか母に近かつた。
「だつて僕の幼《ちひさ》い時分は、正月などにはきつとおぢいさんが、僕達を作兵衛英清の懸物の前に坐らせてお辞儀をさせたぜ。」
「チョツ、下らねえ。」
「英清の前は――」
「よくお前えはそんなことを知つてるな。」
彼は得意気に、
「定左衛門英経。」と云つた。
「ふゝん――。どうでもいゝや。作兵衛英清は何でも下ツ瑞の剣術使ひだとよ。」
「それぢや英の字もあんまり当にならない――となるかね。」彼は、父があまり好い気な冷笑をして独り好がり過ぎる気がしたので、その初めの提言をからかつてやつた。
「まア、いゝさ。そんな夢みたいな話は止さうぜ。」父の酔は、がつくりと一段高まつた。
「そこへ行くと俺は偉いぞう。」
「そこへ行くと――とは怪しい言葉だ。」彼も次第に酔ひが増して、しみつたれの酔つぱらひらしく言葉尻にからまつた。
「いや俺は日本人たア量見が違ふんだ。頭が世界的なんだ。それを……だ。貴様の阿母の兄貴なんて、第一俺を馬鹿にしてゐる。俺はお稲荷様見たいな位ゐは無いよ、だが大礼服の金ピカや勲章が何でえ、△△サーヴァントぢやないか、えゝおい……だからだ……」
「僕はまた、さういふ世界的は滑稽に思ふよ。金ピカだつて奇麗だから、無いよりはいゝと思ふね、月給取を軽蔑したり、何とかサーヴァントだとか何とか、何だつていゝぢやないか……と、そんなことは云ふものゝ僕は何も保守的な若者のつもりぢやありませんぜ。」
「俺ア、肚は社会主義だア。」
「どうも阿父さんの肚は小さいやうだ。」
「いや、貴様よりは大きい。」
「比較して僕は云つたんぢやない、批評したのさ。」
「あゝもう俺は解らん/\。――だからだね、いや、だから[#「だから」に傍点]も何もないが、さういふわけでさ、俺は家《うち》のつながり[#「つながり」に傍点]は皆な虫が好かない。俺が死んだつて泣く奴なんてあるまいよ。たゞ、だね、貴様も馬鹿でさ、俺よりまた馬鹿だから、俺が死んで困るのは貴様だけだぞ。」
「いくら酔つたつてそんな下手なことを云はれちや閉口だ。気が遠くなる。」
「それが馬鹿だ、といふんだ。」
「あゝ、気分が少し暗くなつた。」
「気分とは何だい。貴様の頭は提灯か?」
「うん、提灯だ。」
「提灯とは驚いた。不景気な奴だな! サーチライトにしろ。」
「さうはいかない、生れつきだもの。」
さう決め込んでしまふのも因循すぎるか? 彼は斯んな冗談にふとこだはつて見ると、生れつきなんていふ言葉を用ひたことが、そして若しほんとにそんな気を持つたら大変だ――と思つた。
「ところで、もう一遍子供の名前だがね。」と彼の父は、傍のつまらなささうな女に酌をされながら酔つた体をゆり起した。
「俺の名前の雄をとつて英雄《ヒデヲ》としようか? 男だつたら。」
「英雄《エイユウ》と称《い》ふ普通名詞があるんで弱る。」
「ぢや、お前の一《イチ》を取つて英一とするか? だがそれぢや弟の英二郎と音《オン》がつく[#「つく」に傍点]からな?」
「雄《ユウ》を取るのと一《イチ》を取るのと、どつちが縁起[#「縁起」に傍点]が好いだらう?」
「さて、さうなると?」さう云つて彼の父は余程の問題を考へるやうに首をかしげた。彼も何か漠然と考へた。酔つた頭が、風船のやうにふはふはと揺いでゐるのを微かに感じた。
「それはさうと、今晩はどう? 帰る?」彼は、いつもの通りこの夜も母の手前を慮つて父親を伴れ帰す目的で此処に来たことを思ひ出した。
父は、居眠りをしてゐた。彼は、父が孫の名前を案じてゐるのかと思つてゐたが、父は慌てゝ眼を開くと、
「どつちが好いだらうな? だが、まアそのことは考へて置かうよ。」と呟いた。
「いや、もうそのことぢやないんだよ。――今晩家に帰るか、帰らないかといふこと。」
「今晩は遊んでしまはうや、いゝよ、気になんてしないだつて!」彼の態度が生温いのを悟つて、父はさう云つた。
「さうしようかしら。」
「さう/\、家に帰るのは閉口だ。」
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