「俺も一寸今日は……」
その時父の傍の女が、何か用あり気に席を離れて階下へ降りて行つたのに彼は気附くと、その後ろ姿を見送つてから、
「あんな女何処が好いんだらう。」と云つた。
「あれは少々抜作だ。加《おま》けに面も随分振つてゐるね。」父は大きな声で笑つた。斯う云ふものゝ云ひ方も、斯うあくどく繰り返しては愛嬌にもならない、厭味だ――と彼は思つて、自分にもさういふ癖があつていつか友達から大いに非難されたことのあるのを思ひ出した。
「阿母は偽善者だ。」
「阿母さんは、阿父さんのことを口先ばかりの強がりで、心は針目度のやうだと云つてゐたよ。」
「これから出掛けて、飲まう。」
「うむ、出掛けよう。」と彼も変に力を込めて云ひ放つた。だが父が先に立つて此方を甘やかすのに乗ずると、後になつて蔭で面白がつて彼の行為を吹聴することがあるので、彼はそれを一寸憂慮した。
「だが、今日のことは阿母さんには黙つてゐてお呉れ。」彼は低い声で頼んだ。
「誰が喋るものか、馬鹿野郎!」父は怒鳴つてふらふらと立ちあがつた。
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
庭の奥の竹藪で、時折眼白が癇高く囀つてゐた。周子は縁側の日向で、十日ばかし前からやつと歩き始めた子供の守をしてゐた。梅の花びらが散りこぼれてくると、子供はいかにも不思議さうに凝《ぢつ》と立ち止まつて眼を視張つてゐた。周子はその態《さま》をしげしげと打ち眺めて、
「この子は屹度悧口な子供に違ひない。」と呟いた。そして思はず苦笑を洩した。何故なら彼女はさう思つた時すぐに――少くともこの子の父や祖父よりは――といふ比較が浮んだからだつた。
彼女の夫は次の間の四畳半に引き籠つて、机の前で何やらごそごそと書物の音をたてたり、何か小声でぶつぶつと呟いたりしてゐた。彼はもう四五日前から、子供とも細君ともろくろく口を利かず自分の部屋にばかりもぐつてゐた。彼女は、彼が何をしてゐるのか無頓着だつた。この頃はあまり夜おそく帰ることもなく、酒に酔ひもしないので、清々といい位ゐにしか思つてゐなかつた。
暫くすると四畳半で、
「えゝツ、くそツ!」と彼が何か疳癪を起したらしく、どんと机を叩くや、びりびりと紙を引き裂くのが聞えた。そして彼は、
「とても駄目だ。」と独り言《ご》ちながら、唐紙を開けてひよろ/\と縁側へ出て来た。
「どうなすつたの? 顔色が悪いわ。」彼があまり浮かぬ顔をしてゐるので、周子はお世辞を云つた。
「顔色が悪い? さういふ不安を与へるのは止して呉れ。さういふことを聞くと俺は何よりも悄気てしまふ。」彼は軽く見得を切つてイヤに重々しく呟いた。周子は笑ひ出したかつたが、彼の様子が案外真面目らしいので努めて遠慮した。
「悪いと云つたつて種々あるわよ。変に顔色がまつ赤なのよ。」
「英雄《ヒデヲ》のやうか。」彼は気拙さうに笑つて、子供を抱きあげた。
「何か書いていらつしやるの?」
彼はうなづいただけで、横を向いた。その意味あり気な様子が、周子はまた可笑しかつた。それにしても此間うちから厭に不機嫌で、莫迦々々しい我儘を振舞つては、机にばかり囓りついてゐるが、一体斯んな男が何んなことを考へたり、何んなことを書いたりするんだらう……さう思ふと彼女は、どうせ碌なことではあるまいといふ気がすればする程、間の抜けた彼の顔に好奇心を持つた。すると彼女は、一寸彼を嘲弄して見たい悪戯心が起つて、
「創作なの?」と訊いた。
周子は彼がおそろしく厭な顔をするだらうとは予期してゐたにも係はらず、彼は、おとなしく、そして心細気にうなづいた。
「小説――と云つてしまふのは、おそらく狡猾で、下品なまね[#「まね」に傍点]だらうが、……」彼は聞手に頓着なく、あかくなつて独りごとを始めた。「俺は此間うちからいろいろ自分の家《うち》のことを考へてゐたんだ。親父のこと、阿母のこと、自分のこと、そして英雄《ヒデヲ》のこと……」
「あなたでも英雄《ヒデヲ》のことなんか考へることがあるの?」
「黙れ! 考へると云つたつて……」と彼は険しく細君を退けたが、今自分が云つたやうに重々しくは、家のことだつて親父のことだつて阿母のことだつて……そんなに考へてゐるわけでもない――といふ気がしたが、
「主に親父のこと……」と附け足した。「そして到頭やりきれなくなつた。」
「何が?」
「貴様とは考へることの立場が別なんだから余計なことを訊くな――今、清々としてゐるところなんだ、やりきれなくて止めたので――」
「……」周子は、ぽかんとしてゐた。
彼は、さう云つたものゝ、浅猿《あさま》しい自分の思索を観て、醜さに堪へられなかつた。たとへ周子の前にしろ、うつかり斯んな口を利いて、己が心の邪《よこし》まな片鱗を見透されはしなかつたらうか、などゝいふ気がして更に邪まな自己嫌悪に陥
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