つた。……あゝ、自家のことなんて書かうとする不量見は止さう/\……彼は、さう心に誓つた。今迄彼は、稀に小説を書いたが、それは主に幻想的なお伽噺とか、抒情的な恋愛の思ひ出とかばかりだつた。だが此頃それには熱情が持てなくなつた。
 それならば止めたらよからう――彼は、斯う「新しい熱情」を斥けた。
「ちよつと家へ行つて来ようかな。」
「どつちの家?」周子は立所に聞き返した。彼が出掛ける時には、周子は必ずさういふ問ひを発するのだつた。そして若し彼が、親父の方だ――と云はうものなら、彼女はさながら夫の悪友を想像するやうに顔を顰めるのだつた。尤も彼が、出掛けるといふ時の目当は、大概父親の方だつた。
「阿母さんに一寸用があるんだ。」
「嘘、嘘。」と周子は笑つた。この邪推深さは酷く彼の気に喰はなかつたが、事実はうまく云ひあてられたので、
「嘘とは何だ。」とあべこべに如何にも無礼を詰るやうに叱つた。いや、阿母のところにも一寸寄るかも知れない――などと自分に弁明しながら。
「今日これから、あたしお雛様の支度をするんですが、手伝つて呉れない?」
「あゝお節句だね、もう。」
 彼は、嘘を塗抹した引け目を感じてゐたところなので、周子から見ると案外朗らかな返事を発した。「男の子なんだから、お雛様なんてをかしいぢやないか。」
「あたしよ/\。」
「ふざけるない。子供がることはみつともねえぞ。」
「あなたに買つて貰ひはしないから余計なお世話よ。」
 斯んな無神経な手合にかゝつては此方がやり切れない――彼は自分の鈍感も忘れて、愚かな力を忍ばせた。斯ういふきつかけで喧嘩をすることは、もう彼はあきてゐた。その代り肚で一層軽蔑するぞ――と決めた。これがまた彼の狡さで、ほんとは彼女の言葉を最初にきいた時は、雛節句の宵の女々しい華やかさに一寸憧れたのだつた。
「ぢや御馳走を拵へるのか?」
「お客様も二人ある筈よ。だけど肝心のお雛様がとても貧弱であたしがつかりしてるの。」
「お雛様なんて紙ので沢山だ。――それぢや阿父さんと僕もお客に招《よ》ばれようか。」
「お父さんは真平――。白状すると、怒つちや厭ですよ……、あなたもその晩は居ない方が好いんだが……」
「ハッハッハ……そんなことぢや俺は怒りはしないよ。その代り俺、あさつては昼間から阿父さんのところへ行くぞ。」
 英雄《ヒデヲ》はいつの間にか彼女の膝に眠つてゐた。
「ちよつと行つて来るよ。」
「また始まつた。」
 彼は、何か口実を設けて出掛けようと考へた。
「あゝ今日は珍らしく気持がさつぱりとした。」彼は、そんなことを云つて蒼い空を見あげた。「テニスに行かうかな。」
「テニスなら行つてらつしやいよ。」
「ぢや行つて来るよ。」
 彼は、しめた[#「しめた」に傍点]と思つて立ちあがつた。
「シャツがもう乾いてゐますよ。」
「今日は、ラケットの袋の中にパンツもシャツも容れて持つて行く。」
「怪しい/\。」と周子は云つた。コートに着物を着換へる場所がないので、いつも彼は家から外套の下に仕度をして行くのだつた。――彼は、思はず度胆を抜かれて、
「そんなら着て行かうよ。」とふくれて云つた。海岸の××といふ料理屋に東京のお客と一処に来てゐるんだが、其の人にお前を紹介したいから――といふ意味の使ひを父から彼はうけてゐたのだ。彼は、十日ばかり前父と一処の席で出会つた若いトン子と称《い》ふ芸者が好きになつて、またトン子に会へると思つて内心大いに喜んでゐたのだつた。そして斯ういふ機会の来るのを待つてゐたのだ。
 彼は、破れかぶれな気で、細君からパンツとシャツを受け取ると、情けなく、手早くそれを身に纏うた。
「ジャケツ? それとも外套?」
「和服の外套にしようかしら。」
 細君は笑つて相手にしなかつた。彼は本気で云つたのだ。
 彼は、頭がぼつ[#「ぼつ」に傍点]とした。ズックの靴を穿いて庭に飛び降りると、物置から自転車を引き出した。そして往来に出ると、ヒラリとそれに飛び乗つて真ツ直ぐな道を煙りのやうに素早く走つた。この儘、海岸の料理屋へ行くことを思ひきつたのである。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 最近彼は、また書きかけた小説「父を売る子」を書き始めた。一度不仲になつた父との関係が偶然の機会で、もとに戻つた。現在の感情だけに支配されてゐる此頃の彼は、もう「父を売る子」を書きつゞける元気がなくなつた。此間彼が出京する時の彼と父とは、この小説の第一節と殆ど同じ場面を演じて別れたのだ。「父を売る子」が書きつゞけられないので、出京後彼は、題は考へずにこの[#「この」に傍点]小説を書き始めたのである。三つの家のことを夫々書かうと思つたのだつた。そしてこれはもつと長くなるのだ。
 この小説の第二節の半ばまで、漫然と書いて、これからもつと鋭く父の
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