た。いろいろ奔走もしてゐるらしかつたが、彼は父の仕事は解りもせず、寧ろ信用してゐなかつたので、上の空で聞き流すだけだつた。
「今日は珍らしくお客がないね。」と彼は女に訊ねた。会社に関係する人々が大概この家に出入してゐた。さういふ相談をするには、どうしても斯ういふ家を持つてゐないと都合が悪い――父は彼の母によくそんなことを話して、嫉妬深い母親の心を却つて苛立せて、閉口することが多かつた。
「いゝえ、もうさつきまで三人いらしたんですよ。」と云つて女は含み笑ひをもらした。「若旦那がいらつしやるといふことを聞いて皆さんお帰りになつちやつたんです。」
「若旦那、男前をあげたぞ。」
父はさう云つて彼をからかつた。五六日前彼は、母と細君に煽動されて、酒の勢ひで来客中のこの家に怒鳴り込んだのだ。
「此間はね。」と彼はテレ臭さうに、女に弁解した。「ありやア大芝居なんだ。……だつて阿母と周子の奴が煩くてやり切れなかつたんだもの……」
「お前えの女房もおつ[#「おつ」に傍点]に気取つてやがるね。俺嫌ひだア!」
父は、彼の母のことを既にのけ者にして云つた。
「俺も嫌ひになつたア。」と彼も云つた。「鼻が低くて、眼がまがつてゐる!」
「口が達者で、お上品振りだ。」
そこに二人坐つてゐる若い芸妓達が、口をそろへて「ほんとに此間は、随分妾達も怖かつたわ。」――「若旦那は、お口は拙いけれどどこかお強いところがあるわね。」
彼女達が軽蔑してさう云つたのも知らず彼は、これは俺の威厳を認めたに違ひない――と早合点して、一寸好い気持になつて、
「ハッハッハ。」と鷹揚な作り声で笑つた。そして痩躯を延し、胸を拡げて、
「おい、お酌をしろう。」と眼をかすめて命令した。そして尚も自分の身柄も打ち忘れて、太ツ腹の男らしさを装ひ、
「うむ、お前達は仲々別嬪だな。」などとお神楽の役者のやうな見得を切つて点頭いた。
「ひとつ取りもつてやらうか。」彼の父は、彼の馬鹿さ加減に擽られて堪らぬらしく、失笑をおさへて彼を煽てた。「ほんとうだよ、女房なんてにこびりついてゐるのは……」
「駄目?」と彼は、皮肉なつもりの眼を挙げて、にやりと父の眼を視あげた。さういふ言葉を父に吐かせてやらうと思つてゐたのだ。
「親に意見か!」
父は、ペロリと舌を出して平手でポンと額を叩いた。――彼は、厭な気がして憤《ぷ》つと横を向いた。すると、眼眦《まなじり》が薄ら甘く熱くなるのを感じた。
「親爺は……親爺は……」この俺の酔ひ振りがいけないんだ、これが失策のもとなんだ――さう気附けば気附く程、彼の上づツた酔の愚かな感傷はゼンマイ仕掛けのやうに無神経にとびあがつた。
「親爺は馬鹿だア!」
女は、居たゝまれなささうな格好で凝《ぢつ》と膝を視詰めた。
「俺は親爺の真似はしねえぞう。」と彼は更に口を歪めて叫んだ。だが、さう云ふと同時に心の隅が極めて静かに――おツと、これは云ひ過ぎた。御免々々、あつぱれな口は利けぬ、――などと呟きながら、そしてたゞイイ加減に――まア、いゝさいゝさ――と誰の為ともなく吻ツとした。
「おい、よせ/\、解つてる/\。」彼の父は手を挙げて彼を制した。
「解つてゐればこそ、か。」彼は自分でもわけの解らぬ独言を、憎々しく洩した。――父は一寸、心から気持の悪さうな表情をした。
だが直ぐに気持を取り直して、話頭を転じさせるやうに、
「貴様の子、俺の孫には、何といふ名前をつけようかね。」と云つた。彼は、救はれた気がしたには違ひなかつたが、そんなに想像を楽しむと云つた風な言葉を、嘗て父の口から聞いた試しがなかつたので、擽つたく情けなかつた。で、ぶつきら棒に、
「だつて男か女かも解らないし――」と手前勝手な不平顔を示した。
「多分男だよ。尤も俺は両方考へてゐる。」
彼の心は、容易くほぐれた。
「嘘だア!」彼は、女が親しい友達に厭がらせでも云ふやうに、狡猾にへつらつた。
「いゝえ、此間うちからいつもそんなことを云つてゐらつしやるんですよ。」と女が傍から加勢して、一寸彼の父をテレさせた。
「何でも家ぢや長男には英の字をつけなければいけないんだつてさ。」父は、軽く慌てゝ、それでもう孫を男と決めて、ごまかさうと試みた。
「阿父さんはしきたり[#「しきたり」に傍点]が大嫌ひなんでせう。」
「此頃、少し俺もかつぎ[#「かつぎ」に傍点]家になつた。」
「第一阿父さんや僕は、長男だが英ぢやないぜ。」
「英の字をつけないと碌な者にならないんだつてさ。」さう云つて彼の父は、彼の顔を見た。――そして二人は思はず噴き出した。
「さう云つて見れば弟の方が僕より質が好ささうだね、学校なども何時も優等で――」
「さうだなア、ともかく今度は間違ひなく英の字を付けようぜ。」
「さうしようかね。」彼もその方が好ささうな気がした。「おぢ
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