晩春の健康
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)背後《うしろ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)よそ/\しく
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 羽根蒲団の上に寝ころんでゐるやうだ――などゝ私は思つた位でした。――午頃まで、この儘眠つてやらうかしら、などゝも私は思つたりしました。
 春先で、思ひ切り好く晴れた朝の海辺なのです。――もう、かれこれ二時間も前から私は渚の暖かい砂の上で退屈な、然し極めて快い愚考に自ら酔つたまゝ、思ふさま胸を拡げて大の字なりにふんぞり[#「ふんぞり」に傍点]反つてゐるのです。その私の肉体は、単に洞ろな、たゞ一寸軽い頭の爽々しさだけを感じてゐる一個の物体に過ぎません。――漁の舟はすつかり出払つて了つて、浜辺のいちばん静かな刻限です。はるか向ふで脊中を丸くした老人が凝つと綱を繕つてゐました。その背後《うしろ》で赤犬が一匹何かしきりにはしやいでゐるのが見えました。
「ひとりで凝つとこの儘かうしてゐたい。」
 私は、ふとそんなことを思ふと同時に奇妙なテレ臭さを覚えました。――向方《むかふ》を見ると老人は、もう仕事を終へて桟橋を上つて行く処でした。――もう午に近いんだな! などと呟きながら私は、上向きの儘釈然としてゐると、またとろとろとする甘い睡さがムズムズと砂から伝はつて私の五体に滲み込みました。
 暫くたつて私がひよいと堤防の方を見ると、その上に一寸つまんで置いたかのやうにポツリと女の姿がひとつ現はれてゐました。その箱庭の人形のやうな女は私の方をキヨトンと眺めてゐます。――まともに陽をうけて、それでなくとも近視眼の為か、顔を顰めてゐるらしい様子が、勿論明瞭には見えませんが、照子に相違ありません。で私は、僕だよ、たしかに僕だよ、早くお出でよ――といふつもりで右手を高く差し伸べました。彼女は直ぐに応じて砂地に降りると、全身が笑つてゐるやうな格好で駆け始めました。
 駆けないでも好いのに……などと私は思つて、快く自惚れた僭越な眼で女の姿を眺めてゐました。
「直ぐに解つた?」
「始めツから解つてゐたわよ。」
 私の自惚れとは恰《まる》で反対に、白々しく快活に照子は笑ひました。
「まア、こゝへお坐りよ。」と私は、彼女を自分の傍に坐らせたがつて、先づ自分がさう云ひながらどつかりと坐りましたが、女が相手にしませんので、と同時に、また立ち上りました。で私は、石を拾ひながら、この気分動作の敗北を取り返す為に急に冷かに、
「何か用なのかい?」と反方《そつぽう》を向いて呟きました。
「だつて、もう十一時すぎよ!」
「十一時が、どうしたんだい。」
 私は、拾つた石を力一杯水の上に投げました、波打際の先きで石は、小魚がはねたやうにキラリと光つて消えました。
「妾だつて、それつ位ゐ……」
 ふと負けん気な照子は、石を拾ひ、私に真似て、でも女らしく腕だけで「ヨツ!」と叫んで投げました。勿論私の投げた半分にもとゞきません。
「バカ!」と私は、冷笑しました。だが私は、見物を意識に容れて、だがそれとなく得意気に、鮮やかなモーシヨンを取つて、二つも三つも続けて投げました。水面を転がるやうにかすつて石は飛んだ。
「もうお止めよ。」と照子は、云ひましたが、私はワザともう一つ石を投げてから、
「どこかから手紙は来なかつた?」と訊ねました。
 照子は砂の上に腰を降しながら、
「一つ来てゐたわ、お友達でせう。」と云ひました。
 私も腰を降さうとしましたが、照子の必要な返事以外の言葉に一寸機嫌を損じて、返事もせずに石を投げてゐました。
「箪笥の上に双眼鏡があつたので、妾さつきから二階で此方を見てゐたのよ。バカね、眠つてゐたの、こんなとこで……」
 突然照子に斯う云はれて私は、酷《ひど》くうろたへました。
「まさか……」
 私は、投げるには不適当な丸味のある小石を思はず拾つて、力を込めて投げました。石は波打際までもとゞかずに濡れた砂地に落ちました。小さな波が一つ覆《かぶ》さつて引いた時には石は見えませんでした。
「それでもいくらか考へごとなんてあるの。」
「たんとみくびる[#「みくびる」に傍点]が好いさ、どうせ俺の考へてゐることなんて、照ちやんたア違ふんだからね。」
「チエツ、チエツ!、だ。思はせ振り……。妾、今朝歌を三つ程作つてよ。」
「ほう、偉いね、どんなの?」と私は仰山に驚いて見せながら、照子の傍に漸く坐りました。
「云つたつて解りもしないくせに……」
「まア、いゝからさ。」
 私は、恋人と何か甘い囁きでも交してゐるやうな嬉しさを夢想して、にやにやと笑ひながら不熱心な追求をしました。
「純ちやんなんかも――せめて趣味だけは持つやうにした方が好いわよ。」
「だからさ……」
「妾、文学の趣味のないやうな野蛮人は……」
「解つたよ。」
 仮令徒らであつても私が、そんなに従順なので照子は、何時の間にか一層得意になつて、三つ四つ続けて歌留多を読むやうな口調で朗吟しました。私は腕組をして、怖ろしく尤もらしい顔付をしてゐますが、観賞どころか、聴いてもゐません。と云うて別のことを考へてゐたのでもありません。
「好いでせう!」
 初めて照子は、甘えるやうな笑ひを浮べて私の眼を見ました。
「もう一度その終ひの奴を云つて見てお呉れ!」と私は、空々しく、熱心気に訊き返したり、「なるほどね。」とか、「ふうむ!」とか「うまいな。」などとさへ、まことしやかに嘆賞しました。
「純ちやんも作つて御覧な、何でもね、自分の思つたり感じたりしたことを偽らずに、素直に……調子さへ解れば好いのよ。」
 さう云はれると私は、直ぐに歌のことを考へました。――恋のことが好からう、と思ひました。で私は努めて或る恋情に浸らうとしましたが、どうもはつきり「感ずること」「思ふこと」がありません。……照子の横顔を凝つと眺めて彼女に対する「恋情」を凝集させようとしましたが、何としても心が一杯になりません。東京に居る間に、堪らなく照子のことが想はれて到底凝つとしては居られず、慌てゝなど帰つて来た自分が何だか別な者で、可笑しい気がしました。……「なアんだ、こんな奴。」照子の横顔を眺めてゐた私にはそんな心だけしかありません。
「あゝ、妾またひとつ出来たわ。帰つて短冊に書かうや、純ちやんもお帰りな?」
「先にお帰りよ。」
 私は、不愉快になつてゐたのです。ビクともしない、つまらない、といふ顔で凝つと海の上を眺めてゐました。鴎が四羽ばかりゆるやかに丁度私の眼の前で大きな円を描いて舞つてゐました。何れか一羽は代る代るおくれます。おくれても、決して翼の動かし工合は速くしないにも拘らず、間もなく仲間の群と一緒になつて何れが今おくれた鳥なのか見定めがつかなくなります。
「だつてもう直ぐに御飯だぜ。」
「すぐに帰るよ。」
 照子は「これから手紋をひとつ書いて……」などゝ呟き、よいしよツ! と云つて砂を払つて立ちあがると、私を見降ろして、
「寂しさうね、ホツホツホツ。」と、からかひました。
「まア何とでも思つてゐるが好いさ……ところでもう来る時分なんだがな。」
「嘘つき、何アんだ、千代子なんて! お止めなさいよ田舎芸者なんて!」
「もう来る時分なんだがな、兎も角照ちやんは早くお帰りよ……邪魔だぜ。」
 縦令それが手酷い冷笑でも照子が、何となく肯定してかゝつたゞけで私は、もういくらかの嬉しさを覚えたのです。いつも私は、根もない千代子のことを照子に意味あり気に仄めかすのです。――斯うなつて見れば、私にとつては照子だつて千代子だつて大した差異もないのです。
 照子は「ちやんちやら可笑しいや。」などと此辺で用ひる野卑な冷笑の言葉をワザと叫んで、頭の櫛を気にしながらさつさと歩き出しました。私は、力を込めて照子を軽蔑しながら、女の素足に履いた草履の踵が砂をはね上げてヒタヒタと鳴るのを眺めました。
 勿論千代子がこゝに来ることなどは、私は夢にも思つてはゐませんでしたのに、如何したことかそれから間もなく千代子が向方の渚を伝つて来るのを見て、私は唖然としました。
「昨夜あんなことを云つたが、まさかほんとには思つてゐなかつた。」
 前の晩私は、古い友達に誘はれて酒を飲みに行きました。千代子の家は照子の家のすぐ近所なので彼女がお酌の頃から私は知つてゐました。座敷で遇つたのは初めてなのですが、常々彼女と往来などで出遇ひ、秘かに私は思ひを寄せてゐたのです。――前の晩私は他愛もなく酔つぱらつて千代子に、あしたの朝浜へ出かけて来ないか、などと、この辺の悪青年が云ふ言葉を真似たのです。無論ほんの座興であつたにも拘らずそれを真にうけて女の来るのを待つてゐたと思はれては堪らない――さう思つて私は心底から慄然としたのです。実際私だつて、今彼女が来るまでは前の晩にそんなことを云つたのすら忘れてゐました。たゞ珍らしく早起きしたので、フラリと浜へ降りて来たまでのことなのです。
「いゝえ!。」と彼女も妙にテレ臭さうに云ひました。「妾此頃ね、少し体の工合が悪くて毎朝来るのがお勤めなのよ……」
「僕も、僕も、……運動で……」
 私は極めて不自然に、よそ/\しく頓興な声で出放題を云ひ放ちました。……だが、今度こそは照子の奴が見てゐれば、などゝいふ気がして、同時に己れの浅猿《あさま》しさを喞ちました。
「あなた昨夜、随分酔つてゐらしたわね。」
「さうかしら? あ、さうだ、たしかに酔つてゐた。」
「あなた昨夜云つたこと、アレほんとなの?」
 私の鼓動は一つ異様な音を打ちました。
「どんなことを云つたかしら?」
 私は厭味たらしい眼付をして千代子の顔を打ち眺めました。照子に比べて千代子の容貌が数等優つてゐるのを私は、沁々と味はつて、悦びを感じました。私は前の晩出たら目に、心からお前を愛してゐるので、どうしてもお前と結婚がしたい、などゝいふことを酔興らしく云つたのを直ぐに思ひ出して今、女が追求しやうとしてゐる内容がそれ[#「それ」に傍点]であれば面白いぞ――などゝ考へました。
「ねえ、何んなことを云つた?」
「アラ、知らないわ。」
「ハツハツハ……」
「随分あなたは嘘つきね。」
「何故さア?」
 私は、仰山に眼を見張りました。――何んなに冗談にしろ、こんな風なことで女から攻められる経験を嘗て味つたことのない私は、勝手に「恨まれることの愉快」を夢想して、勝手にそれに陶酔して、勝手に快い残虐を強ひました。「ハツハツハ……」
「照子さんはもう学校を出たの?」
「あゝ、去年の春。」
「どうして此方の女学校を途中で止めて、東京の学校へなんて入つたの?」
「彼奴は手のつけられないお転婆で――バカだよ。」
 斯う高飛車に云つた時私は、突然不思議な(と自分では思ひました)寂しさを覚えました。不思議でも何でもありません。
「あなたが東京に居るからでせう。」
「戯談《じようだん》ぢやない!」と私は思はず叫びました。
「あなたが来年学校を出ると一緒になるんですつてね、チヤンと知つてるわ。お楽しみ……」
「ハツハツハ……」と私は、肯定したやうに哄笑しました。――矢張り俺は照子が好きなのかな……そんな気がして、また甘い情なさを味ひました。と、急に、俺は千代子の体を抱き締はしないかしら――そんな妄想が私の脳裏をかすめました。
「あら! 妾、もう帰らなければいけない、お暇でしたらまた今晩いらつして下さいな。」
 今迄云つてゐたことはほんの愛嬌でといふ風に白々しく、私の返事を待つ間もなく千代子はさつさと帰つて行きました。
 私は、たゞホツとしたばかりでした。照子と千代子の幻が眼を瞑つた瞬間に一寸夢のやうに渦巻き、直ぐに消えました。
 さつきの「歌」のことを考へやう、と私は思ひました。――だが、いくら想つても到底照子のやうに巧には歌へません。照子に、この気持を示したら何ん
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