なに軽蔑されるだらう……などといふ馬鹿気た恥かしさが可笑しい程強く私の胸を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]ります。自分の馬鹿さ加減を覆はうとすることを無気になつて考へてゐるとは、まあ何といふ馬鹿な奴だらう――などゝ私は呟いたりしました。――で私は、歌のことは思ひ切つて立ち上りました。立ち上りながら、一刻前漸く歌らしい言葉の連りが口のうちに纏りかゝつたのを、それを私は――海へ来て石を投げつゝ思ふこと、たゞひたすらに石をおもへり――と口吟《くちずさ》んで、ゾツと歯を浮かせました。私は、たゞ無暗に口笛をピーピーと吹き鳴して自分で自分をごまかしました。こんな歌ではとても照子に吹聴は出来ない、歌は? と、訊かれたら、仕方がない、子供ぢやあるまいしそんなバカな真似はとつくに忘れたよ、とあべこべに鼻であしらつてやれ――などと私は、愚かな画策を回らせて気を鎮めました。
 立ち上つて両足を踏み張つて沖を眺めた私は、既にもう何も考へて居りませんでした。たゞ爽々しく洞ろな心だけが残つてゐました。
 私は下駄を脱ぎました。そして、それをキチンとそろへ、それから帯を解いて着物を脱ぐときまり[#「きまり」に傍点]好く下駄の上に重ねておきました。で薄いシヤツ一枚になつた私は、四肢にウンと力をいれて、ピシヤツと平手で景気好く股《もゝ》を叩きました。少し運動をしてやれ、と私は思つたのです。股の打たれた箇所には、手の痕が赤く残りました。――間もなく私は勢ひ好くランニングを始めました。
 暖かい砂がパツパツとはねあがつて、規律正しい諧調で砂と空気とを蹴つてゆく爪先の感覚が非常に快く思はれました。だんだんと私は脚の速力を速めました。さうして私は夢中になつて「よ、うんと!」などゝ云ふ懸声をして脚を励ましました。
「しつかり、しつかり! ――死んでもいゝぞ。」
 そんなことも口走りました。――右の股に赤い平手の痕を鮮やかに残した私の脚は、その愚かな頭を載せて、怖ろしい勢ひで、さながら機械のやうに速やかに走りました。
 海へ流れ込む幅三尺ばかりの流れを眼の前に発見した時、私の胸は愉快な亢奮を覚えました――そこで私は、歩調を少しく緩めて、流れの一間ばかり手前に来ると、幅飛びの身構へをしたのです。
「ヨシツ!」と、叫んだ私は、爪先で見事に歩調を切り、力一杯、小さな流れの上を、宙を、ピヨンと飛んだのです。ゴム毯のやうに軽い私の体は、ゆるやかな弧を描いて、軽く対岸の砂地に、直立のまゝ踏みとゞまりました。――私は、兵隊が「気を附け」の号令を耳にした時のやうに、矗《すつ》くと、其処に立ち続けました。
 向方の大きな籠の上に、白い鳥が一羽休んでゐるのが、あたりの静かな風景の適当な点景となつて、おだやかに私の眼に映りました。――私は、それを目標にして、凝と不動の姿勢を保ちました。
「どの位飛べたか?」と私は、思ひました。――振り返つて、それを確めることが一寸楽しみに想はれました。が私は、わざと直ぐには振り返らずに、尚も凝つと屹立してゐたのであります。
 沖の方で、汽船の笛が円く響きました。
「熱海行だな――もう十二時なんだ。」
 斯う私は、思ひましたが、船の方は見向きません。玩具のやうな船が、可細い煙を吐いて、後の方からゆるゆると進んで来るところを思ひ、幼年時代に、さういふ絵を描くことが得意だつたことを、ふと回想したりしました。
 私は、暫く棒のやうに立ち尽して、何となく苦笑を感じて、――流れを振り返つて見ました。
 二つの足跡が、交互に散つて、踏み切つて一気に飛んだ間隔の真ン中に、チヨツピリと小川が流れてゐます。――その足跡は、そんな流れを敵としてゐません。小敵に身構へるに、楯を執り、剣を抜き放ち……と云つた感じでした。
 砂地は、スレートの如く平に滑らかでした。その上を私の足跡だけが、一筋に、はらはらと小魚のやうに滾《こぼ》れてゐます。――私は、はるか向方の着物のところまで足跡を追うて、見渡しました。一直線に――と確信して駆けて来た私の、その足跡は、まるで酔漢のそれのやうに、ヒヨロヒヨロと曲つてゐました。――だが思つたより長い距離を駆けてゐたのを、今更のやうに感じました。――また、あそこまで着物を取りに戻らなければならないのか! と思ふと私の気持は、急に夥しい怠惰者になりました。
 私は、両腕を後に張つて、そのまゝそこに腰を降ろしてしまひました。私の腹と胸は、大きな呼吸で波打つてゐます。私は煙草を喫《ふか》したかつたが、仕方がありませんので、酷く手持無さたになつて、息づかひの激しい、性急な、間断なく山になつたり谷になつたりする腹の運動を眺めてゐるより他にありませんでした。――膝頭に止つた脚の長い変てこな昆虫が、腹の上に飛び降りました。虫は、凝ツと翅を休めると、どんなに、私の腹が大きく脹れたり凹《へこ》んだりしても、一向に頓着なく、何か憂鬱なことでも想ひながら遊動円木にでも乗つてゐるかのやうに図々しく、落ついてゐます。そのうちに私の息切れは、収まりさうになりましたが、私は虫を眺めながら故意に大きな深呼吸をしたりしました。
 なにしろ私は、もう一辺あの着物のところまで戻らなければならない、と思ふと、それが何よりも退儀でなりませんでした。
「照子の奴が、また二階の欄干からでも眺めてゞもゐはしないか?」
 われに返つたやうに斯う思ふと私は、堪らない冷汗を覚えました。
「チヨツ! チヨツ! チヨツ!」
 私は、顔を顰めて、激しく舌を鳴らしました。
「彼奴は何といふ安ツぽい虚栄心の強い女なんだらう、他人が退屈してゐる姿を、そつと眺めて、軽蔑するとは!」
 私は、そんなことを呟きながら、そして出来るだけ強く照子の幻に軽蔑の念を浴せて渚に降つてピシヤピシヤと水を蹴りながら着物の場所まで引き返しました。――私の心は、わけもない後悔に閉ざされて、自分こそ安ツぽい憂鬱に落ちてゐました。
「神経衰弱なんだ。だから、これから毎朝早く起きて浜へ運動に出るんだ。さうでもしないと食慾さへ起らないんだもの……」
 若し照子が、何か云つたら、斯うとでも云つてやらうか、それにしても神経衰弱とは一体何んな病気かしら?、――などと考へながら私が、下駄と着物を抱へて静かに桟橋を昇り初めた時、グウツ[#「グウツ」に傍点]といふ音をたてゝ空腹《すきばら》が鳴りました。



底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「週刊朝日 第八巻第六号」朝日新聞社
   1925(大正14)年8月2日発行
初出:「週刊朝日 第八巻第六号」朝日新聞社
   1925(大正14)年8月2日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年4月21日作成
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