くなつた。――今なら反つて落ついて仕事が出来さうな安らかさを感じた。
 だがこゝでは「仕事」のことは考へまいと思つた。それを思ふと「家うちのこと」が、鉤になつて上顎に引ツかゝつた。そして、その他の空想を絶つた。一体この釣鉤は誰が垂れてゐるのか! それにしても相当腕の好い釣手に相違ない、糸をなぶり、藻をくゞらせてまで、巧みに竿を操る。岩間にかくれて、いくらか痛さにも慣れたからこの儘夢でも見ようとすると、どつこい! と引きづる。振り切る隙も与へない、チヨツ! もう首も振らない、尾も蹴らないから、引きあげるものなら好い加減に引きあげて呉れよ、妙な大事をとらないで――。
 また、春が来ようとしてゐるではないか。
 自分は、そんな風に荒唐無稽な不平を洩らしてゐると、虫のやうに想ひが縮んで行くばかりだつた。
 あれらの自分の仕事は、まさしく鉤を呑んだ魚が、身もだきながら泥を浴びて放つ嘆声に他ならなかつた。感情は歪んだまゝに固まらうとしてゐる。顎をつるされ、口をあんぐりと開いたまゝ、欠伸もする、稀には気晴しの唱歌も歌つたりするのであるが、開閉を許されない口から明瞭な音声の出る筈はない、法螺貝の音ほど
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