うかと思つたが、テープを引つ張るなどといふことを思ひ出して行きそびれてしまつた。
 Aよ、君はもう彼地に着いた頃であらう、俺は未だ……。間もなく俺は君に妙な手紙を書くであらうが、君のその地に於ける第一の日曜日は俺の為に費して貰はなければならない――」
 Aの手紙には、Flora の家族と、そして彼が未だ写真でしか知らない父だけを同じうする妹のHに会つた事が書いてあつた。彼女等は、彼の来航を信じてゐる――とも書いてあつた。

          *

 彼は、自分から頼んで母に宿屋を問ひ合せて貰つた△△温泉行をやめて、突然、
「あした東京へ帰る。」と云つた。
 これを聞いて最も気をくさらせたのは妻だつた。彼女は、寧ろ彼の為に、東京での彼のダルな生活を見るに忍びなかつた。
 彼は、文字で完全に一枚埋つてゐる紙片は殆どない断片的な数十枚の原稿、あの東京の嫌な郊外の寂しい家に棄てて来た反古紙に心を移すより他になかつた。どれもこれも、力のない夢のやうな呟き言に等しいものだつた。――ただ、それ等の中には何処にも自家の同人の姿が現はれてゐない架空的なものばかりだつた。
 それだのに彼は、△△行を止め
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