くなつた。――今なら反つて落ついて仕事が出来さうな安らかさを感じた。
だがこゝでは「仕事」のことは考へまいと思つた。それを思ふと「家うちのこと」が、鉤になつて上顎に引ツかゝつた。そして、その他の空想を絶つた。一体この釣鉤は誰が垂れてゐるのか! それにしても相当腕の好い釣手に相違ない、糸をなぶり、藻をくゞらせてまで、巧みに竿を操る。岩間にかくれて、いくらか痛さにも慣れたからこの儘夢でも見ようとすると、どつこい! と引きづる。振り切る隙も与へない、チヨツ! もう首も振らない、尾も蹴らないから、引きあげるものなら好い加減に引きあげて呉れよ、妙な大事をとらないで――。
また、春が来ようとしてゐるではないか。
自分は、そんな風に荒唐無稽な不平を洩らしてゐると、虫のやうに想ひが縮んで行くばかりだつた。
あれらの自分の仕事は、まさしく鉤を呑んだ魚が、身もだきながら泥を浴びて放つ嘆声に他ならなかつた。感情は歪んだまゝに固まらうとしてゐる。顎をつるされ、口をあんぐりと開いたまゝ、欠伸もする、稀には気晴しの唱歌も歌つたりするのであるが、開閉を許されない口から明瞭な音声の出る筈はない、法螺貝の音ほどの高低があるばかりさ。
夕方になつて戻ると、静岡の叔母も来てゐた。五年前に死んだ父方の次男のTの未亡人である。Tは医者だつた。この叔母は、今では静岡の在で単独で薬局店を経営してゐる。
自分は、近いうちに静岡を訪れようと思つてゐることなどを話した。静岡には、老妓のお蝶がゐる。勿論お蝶には手紙も行つてはゐないだらうが、父のあしたの法要には出かけて来るだらう――さう思つたので自分は、さつき散歩に出かけた時お園の楼を訪れて彼女の消息を訊ねたのである。
誰と話をしても面白くなかつた。その上、家内の者はそわ/\として坐つてゐる者もなかつた。母だけが(おや、いつから眼鏡をかけるようになつたのか?)茶の間の火鉢の傍で帳面をつけてゐる。
自分は、箱のやうな奥の部屋に引つ込んで机の前に坐ることにした。――少しも酒を飲む気がしないのは吾ながら妙だつた。こゝで、こんな風に机に坐ることなどを自分は、ついさつきまでも思ひもしなかつたのである。
自分は、鞄からペンと紙を取り出して机の上に伸べたりした。
書くことを考へて見る――新鮮味に欠けたおそろしく不自由な想ひばかりが、傍見を出来ないやうに眼を覆つてゐる。それだのに自分は机に凭つてゐる。昼間、お園の処で少しばかり飲んだが、それも水のやうに白々しく今になつたらすつかり忘れてゐる。いつかうちのやうに、あそこの家で酔つたりなどしないで好かつた――そんなことまで思ふと、そこでも、この自家でも往々酒の上で演じた様々な痴態がまざまざと回想されて、ゾツとした。
「××ちやんは何処へ行つたの?」
「出かけたの?」と、母が妻にきいてゐるのが聞えた。にぎやかな夕食が始まつてゐた。
「あたしも少しお酒を飲んだら、こんなに顔があかくなつてしまつた。」
のぞきに来た妻は、自分に飯のことを訊くと、自分は、もうひとりで済してしまつたと答へて、普段机に向つてゐる時と同じやうに素気ない表情をしてゐるので、妙な顔をして引きさがつて行つた。
屹度自分の眼は猜疑の光りに輝いてゐたに違ひない。――自分は、犯罪者のやうに夢を知らないおぢけた態度で周囲を見廻したり、平和な彼方のまどひに気を配つたりした。
前の日に片づけたのだと母が云つた雛の箱が床の間に載せてあつた。自分には女のきようだいがないので、これは祖母と母の昔の雛ばかりなのだが、そんなものが好く残つてゐたものだ。自分は、それに惑かれやうとしない心を無理に結ばうと試みた。
在るお雛様を飾らないと、節句の朝にお雛様は自らツヾラの蓋をあけ、行列をつくつて井戸傍に水を呑みに来る――祖母は、よく子供の自分にさう云つた。自分は、雛に関する愉快な思ひ出に耽らうとしたのだつた。祖母の話は、今の自分にも多少気味が悪い。
昨べ自分は、ふとそんな話を母に訊ねたら母は苦笑して、私は楽しみに飾つたのだ、その晩には十二時近くまでも起きてゐた――と寂しい慰めを求めたやうに云つた。今では、母と次郎だけの家庭なのに、この家の雛節句の宵はどんな様だつたらう……Flora がアメリカに帰る時に、自分達は雛を送つたことがある。母が不服さうな顔をしたが自分は、母の古い雛を一対混ぜて、あの祖母から聞いた話を戯談らしく云ひ添えたが、彼女は覚えてゐるかしら?
自分は、頬杖をして成るべく呑気な回想を凝らさうとしたが、如何しても自分の心はキレイにはならなかつた。
自分は、おそろしく、床の間の隅の母の手文庫に心を惑かれるばかりであつた。子供の時から見慣れてゐる楠の手文庫である。自分の心は、いつ頃からあれ[#「あれ」に傍点]をねらひはじめたか
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