月八日
 午に迎えた少数の招待客は、日が暮れないうちに、大方引きあげて行つた。――自分は、とう/\昨べは徹夜をしてしまひ、その儘起きてゐるのだが、眠くなかつた。
 酒も飲まなかつた。
「阿母さんは今でも、日記をつけてゐますか?」自分は、何気なく、親し気な追憶家のやうな調子で訊ねたりした。
「えゝ。」と、母は点頭いた。
「ずうつと、続けて?」
「まア……」と、母は微笑した。
「休んだことはないの?」
「……でも、昔のやうにも行かなくなつたよ。ほんの、もう――」
「さうかねえ……昔からのが皆なとつてありますか。」
「あるだらう。」
「随分沢山あるだらうな。……何処にしまつてあるの?」
「あまり古いのはたしか長持……」
「稀に、読み返して見たりすることもありますか。」
「滅多にないが、稀には――」
「面白い?」
「馬鹿な――」
「いつまでも残して置くつもり?」
「いまに一まとめにして焼き棄てゝでもしまはうか? と思つてゐる。」
「何故――」
「だつて邪魔ぢやないか。」
 そんなところまで話がすゝんでも母は、それが他人に読まれるであらうといふ考へはないらしかつた。
「お前は、どう?」
「…………」
「つけてゐないの?」
「時々――」と、自分は小声で呟いた。この頃書く小説は日記のやうなものだ、と自分は秘かに弁明した。
 自分は、前の日と同じやうに独りで箱のやうな部屋に引込んで机に突伏してゐた。見えない処にあれを蔵つてしまひたかつたが、そんなわけにもゆかなかつた。――自分は、未だ誘惑されてゐるのだ。その他には、何の思ひも働かなかつた。
「××は居ないのかね。」
 自分のことを、年寄りの叔父が母に訊ねてゐた。
「昨夜、徹夜で勉強したとかと云つてゐましたから、大方奥で休んでゐるんでせう。」
「何あんだ、こんな時に勉強だなんて――でも、まあ酔つ払はれるより好い、ハハ……」
「この頃は、お酒もあまり飲まないさうなんです。」
「飲むも飲まないもあるものか、あの年頃で……無茶苦茶さ。」
 自分が聞いてゐることを知らないで話してゐるらしいので、自分は出かけて行かうかとも思つた。
「でも、もう三十一なんですからね。」
「ほう、もうそんなになるのかな……」
 しばらく経つて母が、
「寝てゐるの?」と云つて唐紙を開けた時自分は、居眠りをしてゐる通りな様子で巧にすやすやしながら机に伏してゐた。自分は、今にも出かけて行つて呑気な仲間に加はらうと思ふてゐた矢先であつたにも関はらず、思はずそんな真似をして後悔した。――母は、そつと自分の背中に丹前をかけて行つた。
 そのうちに自分は、ほんとうに眠つてしまつた。雛が行列をつくつて、泉水の傍の井戸傍に水を呑みに来る夢を見た。これは自分には始めての夢ではなかつた。子供時分にも同じ夢を見たが、妙にはつきりと記憶に残つてゐるものだつた。

 三月九日
 自分は、午後の三時頃まで眠つてしまつた。一家の者は皆墓参りを済ませて帰つてゐた。父の三年忌日である。
 自分は、待つてゐた妻と共に歩いて墓参りに行つた。
 お寺で、お園とお蝶に遇つた。

          *

「三月××日」
 何の為めか知らないが彼は、以上のやうな事を七日からこの日までかゝつて、郷里の家で徹夜をしながら、おそろしく苦んで書いた。
 彼はアメリカのAから手紙を受け取つた。Aは彼の東京の居住を不安に思つて郷里にあてて寄したのである。彼が、ずつと以前反古にした紙片のうちには次のやうな個所がある。
「この間私は米国へ行く友達のAを東京駅で送つた。アメリカへ行く友達――さういふことに私は或る家庭的の事情から愚かな感傷を持たされた。理由は省くが、普通の見送り人ではない一種妙な感情家にならされた。
 Aは初めての旅だつた。それが決つて以来彼は日夜間断なく、悪く花やかに胸の鼓動が高くて苛々と、箒が投げ出されてゐる座敷に坐つてゐるやうに、胸先にハタキをかけられてゐるやうに――彼は、そんな形容をして変に悲しく落つかないと屡々私に告げた。何だかこんな気持は君にだけしか云へないと、彼は酔つては告げた。全く私は、病ひとさへ思はれる位ひな彼の落ちつきのないのにも、感傷にも、秘かな幾度かの送別宴にも、そして彼の酒の上での涙にも、私は、何らの恥らひもなく、痛ましく明るく行動を共にした。どつちが行く者か? 送る者か? 私としても終ひにはそんな区別を忘れてしまつた。
「君の気持が俺と一処に船に乗り、彼地に着き、さう思ふと何んだか薄気味悪い。」
 或晩彼は斯んなことを云つて私の顔を眺めた。あの間こそ私が奇妙な病人であつたかも知れない。始終家庭にばかりごろごろしてゐた私が急に熱心な外出家になつたので終には妻が不安な顔をした。
 出帆の光景といふものは私は一度も見たことがないので横浜まで行つて見よ
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