うかと思つたが、テープを引つ張るなどといふことを思ひ出して行きそびれてしまつた。
Aよ、君はもう彼地に着いた頃であらう、俺は未だ……。間もなく俺は君に妙な手紙を書くであらうが、君のその地に於ける第一の日曜日は俺の為に費して貰はなければならない――」
Aの手紙には、Flora の家族と、そして彼が未だ写真でしか知らない父だけを同じうする妹のHに会つた事が書いてあつた。彼女等は、彼の来航を信じてゐる――とも書いてあつた。
*
彼は、自分から頼んで母に宿屋を問ひ合せて貰つた△△温泉行をやめて、突然、
「あした東京へ帰る。」と云つた。
これを聞いて最も気をくさらせたのは妻だつた。彼女は、寧ろ彼の為に、東京での彼のダルな生活を見るに忍びなかつた。
彼は、文字で完全に一枚埋つてゐる紙片は殆どない断片的な数十枚の原稿、あの東京の嫌な郊外の寂しい家に棄てて来た反古紙に心を移すより他になかつた。どれもこれも、力のない夢のやうな呟き言に等しいものだつた。――ただ、それ等の中には何処にも自家の同人の姿が現はれてゐない架空的なものばかりだつた。
それだのに彼は、△△行を止めて東京に帰らうとする自分に、何か積極的な理由を感じてゐた。
それで、何んなことを書き散らしたかしら? と思つて見ても思ひ出すことは出来ないやうな果敢ないものばかりだつた。
彼が心の状態が最も哀れな時は、彼は往々内容には何の的もなく「題名」見たいなものを考へる癖があつた。尤も、これは小説を書くやうになつてからの習慣ではなく幼年時代から彼は、それに似た癖をもつてゐた。
絵でも小説でも題名を先に考へた場合に、その仕事がまとまつた経験を彼は殆んど持たなかつた。無理もないのだ、それは悪い幼稚な感傷で、決して内容が伴はない、それでゐて技巧的にも見ゆる浅はかな単なる文字に過ぎなかつたから。
彼は、だからいつも題名を先に考へたときには、慌てゝそれを抹殺することは困難ではなかつた。稀にはわざとらしい題名に阿つて曲文を弄することもあつたが完成する筈はなかつた。
「何んなことを思つて何んなことを書いて来たのだつたかしら?」と、彼は、呟いだがまるで思ひ出せなかつた。
「冬の風鈴」
そんなことを紙に誌したことは覚えてゐるが、あれには例の如く一言の内容もない。
底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「文藝春秋 第四巻第四号(四月特別号)」文藝春秋社
1926(大正15)年4月1日発行
初出:「文藝春秋 第四巻第四号(四月特別号)」文藝春秋社
1926(大正15)年4月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年4月21日作成
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