階の座敷には先の若槻宰相の筆になる扁額が懸つてゐたと思ふ。おそらく毎夕四合壜を一本宛晩酌にとるといふ先の宰相は、この家の「大関」酒を愛好さるゝのであらう――だがたしかに宰相の額であつたか何うかはウロ覚えであるが、私は時々お光さんのゐた酒場へ行くには未だ時間が早いと思はれる明るいうちなどに、杉の葉の目印の格子をあけて此処の土間の飲み場に現はれることがあつた。
この時土間の腰掛けにゐた客はその疳の高ぶつた親父と、風船的陶酔者の私と樫田とだけだつた。――然し、三つ四つの露路を何うして越えて来たのか、もはつきりしなかつたのであるから、見当だけでなだや[#「なだや」に傍点]ではなかつたのかも知れない……私は、たゞ、妙な細い声で、
「おゝ、私は何処の窓からこの痛ましい小鳥を放したら好からうか――」
と、思ひ詰めてゐた事なので、つい/\口に出しては、ぼんやりと天井に眼を放つてゐたのだらう。
と、一度落ついたらしかつた親父は、また堪らなくなつて、
「やい/\/\!」
と角頤をしやくりあげた。――「ヘツ、嗤はせやがら――馬鹿野郎!」
私は、慣ツとして、止せば好いのに、
「煩えや!」
と、急に強さうに音声の調子を落して唸り返した。「何だつて、ピストルだつて! 何方が嗤はせやがるんだい。さあ、そこに、そんなピストルを出して見やがれ。」
すると親父は、妙な当惑顔を示して、鋭く舌を鳴した。
「何処まで感の悪い野郎だらう。馬賊のピストルてえのは俺らの仇名なんだよ、知らねえのか?」
「知らないね。知らないといふ絶対的事実は決して恥と思はんね。」
「知らせてやらう。俺らは此辺の……(凄い巻舌で開きとれなかつた。)だが、十年このかた満洲の山をごろつきまはり……」
「能書は聞きたくないぞ。江戸ツ子の癖に満洲くんだりまで出かけて、ピストルを……」
「違ふてえんだよ。間伸びのした野郎にかゝつちや此方がてれちやふぞ――。満洲と云つても、それは少々わけが違つて……えゝ面倒臭せえな!」
と彼は焦れ、咳払ひをした後に改めて物々しく、
「こいつが!」
とコツペ・パンのやうな腕を突き出して詰め寄つた。「ピストル程にも物を言ふ株屋町の馬賊で通る男なんだ。手前えは何処から現れた風来坊だい?」
「シヤーウツドの森から出て来たロビン・フツドの党員だ。」
七
「ようし、外へ出ろ!」
彼は、さう
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