点頭きながらうつむいてしまつた。滝本が追求すると、理由は好く解らないけれど、太一郎や堀口が何か七郎に向つて悸すやうなことを云ひに来たので――といふやうなことを苦笑を浮べて八重が云つた。
「ラツキーの代りに、リリイは、今は此方に任してあるが――ほんとうは、もう篠谷の持物に変つてゐるんですつて!」
「そんな馬鹿なことはない。七郎が好人物だと思つて、彼奴等は何処まで人を喰つた真似をするんだらう。――ラツキーを取り戻すためには、ちやんと、あの――」
と滝本は思はず口走つて、
「俺達が蔵から持ち出した鎧櫃やら巻物を売つた金を……」
云ひかけて、何も知らない八重に向つて亢奮の気色を示し過ぎたことに気づいて、
「ねえ、竹下――酷《むご》いことをする人達だな、どこまでも――」
と、汀の石に腰を降して鯉を眺めてゐる竹下に呼びかけた。
「何うしても俺は、太一郎といふ奴を擲《なぐ》らずには居られなくなつた。」
竹下は立ちあがつて、腕を滝本の眼の先へぬツと突き出した。
「関はず、此方でリリイを出すことに仕ようぢやないか。」
滝本は微かな震へ声で唸つた。
「然し、それがもう太一郎の持馬と変更されてゐるとしたのなら何んなものだらう?」
竹下の声は不安に戦いてゐた。
誰も気づかなかつたが、さつきから八重の父親が泉水の向ふ側で水の上の落葉を拾つてゐた。そして此方の話を聞いてゐたと見へて、網の竿で水を叩きながら、
「なあに――若しもあなた方がリリイを使ふんだつたら御自由ですとも――決して、未だ篠谷に譲り渡したわけぢやないんだし……そんなら今のうちだ。」
と独り言のやうに呟いた。
「よしツ――ぢや、俺が、リリイの騎手になつて、太一郎と戦つてやらう!」
滝本は、窓から、未だ朝露に濡れてゐる庭石の上に飛び降りながら叫んだ。
この村の競馬といふのは主に、その馬の持主が騎手になつて出場するといふ――奇妙な風習であつた。馬も亦、決して専門の競馬用のものではなくつて、普段は野良に出て田を耕したり、馬車を曳いたりしてゐる労働馬を並べて、一種独特の地方色に富んだ競技を戦はすのであつた。それで、それ程の老体でもなかつたが騎手になることの出来ない堀口は、秘かに騎手の物色に余念がないわけなのであるが、それは明らかに反則行為の筈である。騎手は、持主か、でなければ、その家の家族の一員でなければならぬ掟であつたから、時には花々しいユニフオームを着けた年頃の娘が騎手となつて競技場に現れることも珍らしくはなかつた。八重や百合子も、嘗ては晴れのレースに出場した経験を有つ身であつた。
「リリイか、ラツキーなら――妾も、もうすつかり慣れたから独りでも乗れる。」
競馬のいきさつに就いては了解し憎かつたらしいローラは、騎手になるといふ意味からではなしに、そんなことを進んで云ひ出し、何時か皆なで轡を並べて昆虫採集に行つた時のやうに今日もこれから、めいめいに馬に乗つて海辺へ行かうではないか――
「山を一ト回《めぐ》りしながら――」
と誘つた。
その朗らかな提言で滝本と竹下の亢奮は静まつたが、滝本は、早速「騎手」の練習に取りかゝつて見たかつた。ローラは、ウヰルソン先生にデヂケートする目的で、このあたりの野生植物やら昆虫類の標本を作ることを主な仕事としてゐた。
娘達が乗馬服に着換へる間に竹下と滝本と八重の父親が、街道に出て、何時ものやうに知り合ひの水車小屋から「ワカクサ」、蜜柑山の倉庫番から「アサカゼ」「ミドリ」、そして酒造家の厩から「ドリヤン」などゝいふ馬を借り出して来た。
竹下はギターとランチ・バスケツトを携へてアサカゼに、ローラは捕虫網を翻してリリイに、百合子は海水着の袋を鞍につけてワカクサに、八重はローラの採集箱を肩にかけてミドリに、そして滝本は空身《からみ》でドリヤンにまたがつた――蝉がかまびすしく鳴き立つてゐる森を抜けて河堤に出た。朝の運動を終へて戻つて来る村中の「競馬馬」が、此処彼処に颯爽たるいなゝきを挙げて、恰で何処かに馬市でも開かれるかのやうに、街道も河堤も山径も間断もなき程凄まじい人馬の往来であつた。――この村には何んな貧しい家にも少くとも一二頭の馬を飼育してゐない処はない――馬の村であつた。競馬の季節が近づくと、村中の人々は一切の野良仕事を放擲して、それぞれの飼馬の訓練に寧日なき有様であつた。懸賞競馬に優勝すると凡そ一ヶ年分の生活費が賞金として獲得出来るといふ仕組であつたから、季節が迫るに伴れて村全体が競馬の熱に浮されて、様々な暗闘やら策略やらで渦巻いて異様などよめきが漂ひはじめるのが慣ひであつた。
此方の一隊のやうに、斯んな切端詰つた時期に幾分の余技的ないでたちで練り歩いてゐる光景は寧ろ人々の眼に謎の感を与へるかのやうであつたが、今日は、先頭に立つた滝本の何時にない颯爽たる様子が、恰度|往来《ゆきき》の馬を伴れた村人の真剣な眼付きに匹敵して決しておくれるところのない殺気を含んでゐた。――何処の馬の今年のコンデイシヨンは何うだ? といふ観察をするために往来の人々は互ひに疑念に富んだ眼を挙げて、互ひの馬の様子を窺ふのであつたから、事更に、敵方の油断を盗むために呑気らしく馬車を曳かせたり、枯草を積んだりしながら秘かに、着々と訓練の鞭をふるつてゐる権謀家も多かつた。だから、滝本達の一行が、そんな装ひで隊伍を組んで行くところを反つて意味あり気に打ち眺めて、
「仲々、何うも御精が出ますな!」とか、
「騎手のそろつたところは見事だが――」
馬の数が足りないであらう! などゝ嘲りを送る者もあつた。
「騎手が足りないで困つてゐる篠谷や堀口なんていふお大尽があるかと思へば、他所の馬を借り出して……」
河の淵で馬の体を洗つてゐた男が、滝本の方を向いて、そんなことを云ひかけた時、
「これがね――君!」
と滝本は傲然として云ひ返した。「都合に依つたら俺達の組ぢや、この同勢がこのまゝ今年の競馬に出るかも知れないんだぜ、此方の云ひ分次第では馬も悉く吾々のものになるといふ事にもなつてゐるんだから――」
「お前さんは、この馬が、今度堀口さんが買つた馬だつてことを知らないのかね? 馬は相当なんだが乗手がなくつて、堀口さんは血眼になつてゐるといふところさ――」
はぢめ堀口は八重を物色したのであつたが、それが失敗したので今では、滝本の実家の名前を持つてローラを呼び返して騎手に仕立てようと計画してゐる――などゝいふことを男は滝本に告げた。村では、騎手は男よりも寧ろ娘の方が歓迎されはぢめてゐた、この二三年以来――。美しい娘が、きらびやかな男姿のユニフオームをつけて競馬場に現れると観衆は万雷の拍手を浴せて、しやにむに彼女に投票を送つて、恰でレビウ見物のやうな騒ぎに酔ふのであつた。その人気に圧倒されて大枚の男達は色を失つて敗北してしまふのが例で、近頃はもう殆ど騎手は娘に限られてゐるといふ状態であつた。女流スポーツが近年世界的の人気を負ふてゐるやうに、年毎にこの村からは花々しい女流騎手が出現した。女学校でも運動課目の分科として、乗馬を奨励して、選手の養成に余念がなかつた。
滝本は、それ[#「それ」に傍点]に、たつた今気づいた。これは自分が騎手になつたつて始まらない! と思つた。
滝本は、大分後れて呑気な脚どりでぽか/\と従いて来る後ろの百合子達を振り返つて「これから、競馬場へ行つて見よう、兎も角俺に従いておいでよ。」
と合図して、河堤を急に左に折れて丘を昇りはぢめた。
「……えゝ、さうなんです、村井は或る誘惑と戦つてゐるんです。」
「まあ! ――それにしても、一体、それは――誰を恋してゐるといふんだらう?」
百合子と竹下は、そんな言葉を、馬首を並べて取り交しながら滝本の後を追つてゐた。ローラは八重と轡を並べて、切りに日本語に関する質問を提出してゐた。
竹下は話を続けてゐた。
「此方は、つまり男が四人――そして、吾々のカタリーナ媛《ひめ》が三人――四人と三人……」
「馬鹿/\しいわ、四人と三人ぢや駄目ぢやないの!」
百合子は、事更に声を挙げて馬鹿/\しさうに哄笑してゐた。竹下が伝へようとしてゐる村井の所存――四人の男達のこの頃の理想の一端は、四人と三人のこのまゝの生活を、形式を変へて都会に移しても、そのまゝ理想の共和生活が保たれなければならない筈なのだが、そして四人の騎士は、三人のカタリーナが醸し出す明朗な煙りに、誰が誰にといふ区別もなく、青春の熱烈な恋愛の感情に満足を覚へながら最も健全な生活が得られることに自信を持つてゐるのであるが――そんな、云はゞ夢のやうな陶酔状態が何時まで続くか――。
「村井は、空想のうちで結婚の誘惑に駆られはぢめたのです。」
「まあ、面倒な云ひ方をする人達だわね――はつきり誰ツて? 解らないの。」
「村井は、百合さんに恋してゐるんでせう。」
と竹下が思ひ切つたやうに云ひ放つた。
「それは違ふわ――」
百合子は、自分の言葉の矛盾してゐるのに気づかず、
「それは守夫さんだわ。」
と云つた。
「ところが――」
と竹下は続けた。「百合子さんと云ふ代りに村井は、ローラと云ひ換へても、八重さんと云つても――関はないんだつて……」
百合子は何の憂色も浮べずに、
「大分話の方向が物騒になつて来たわね。」
竹下さんも、それで――村井さんと同じいけ[#「いけ」に傍点]図々しい理想派といふわけなんぢやないの――と云ひ放つて先へ駆け抜けた。
「それが、つまり、今、彼が書き続けてゐる仕事の主題《テーマ》となつてゐるわけなんですが……」
竹下は百合子を追ひかけたが轡がうまく並ばないで、声を挙げて、
「つまり吾々の理想生活の発端といふのが、個性を超越した漠然たる夢の……花やかな円形競技の――」
などゝ意味の好く解らぬやうなことを朗読する見たいに歌つてゐた。
乗手を置き去りにしたリリーとミドリが竹下の後から坂を昇つて行つた。――ローラと八重は河原に降りて蜻蛉を追ひかけてゐた。
馬を洗つてゐる男の傍に何時の間にか太一郎と堀口が現れて、娘達の様子を眺めると二人は、
「やあ、好い処に居るぢやないか!」
と顔を見合せた。
「八重――」
と太一郎が呼んだ。何故か彼は何時でも八重の名を呼び棄てにした。「ローラさんはもう、リリーに慣れたかね。」
「えゝ、慣れましたわ。」
八重の代りにローラが何か感違ひでもしてゐる見たいな顔つきで、早くちの英語で答へてゐた。「今も皆なで行列をつくつて、駆けて来たところです。」
「此方のものだよ。」
太一郎が眼を輝かせて堀口に囁いた。
「私の馬をお借しゝませう。」
「八重は俺のにお乗りよ――競馬場へ行つて遊ばうぢやないか――ローラさん、珍らしい蝉をとつてあげますよ。」
太一郎と堀口は滝本達が競馬場へ向つたことを知らぬ様子であつた。
十二
武一がラツキイを駆つて、馬場を廻つてゐるところに滝本達が来て――此方も三人のカタリーナを出場させて選手権を争つてやらうではないか、無論三人とも勇んで承諾したから――といふことを告げると、
「左う決まれば――」
と武一は雀踊りして叫んだ。「東京へ引き上げた後も季節《シーズン》毎に村に帰つて――堀口達を牽制しつゞけてやることが出来る。百合子は、この頃こそ騎手にならなかつたが、誰にも負《ひ》けをとつたことのないブリリアント・チヤムピオンなんだもの――」
「八重さんとローラさんも、此頃では妾に負けない名手だわよ。」
「男達の働きよりも、一年一回のカタリーナ達の収入の方が断然リードするなんてことになりさうだな――ハツハツハ……」
竹下は無性に痛快さうに哄笑した。「東京の郊外に早速――ヴエランダつきのバンガロウを借りるとしよう。そいつが俺達の合宿所になるといふわけだ。」
堀口と太一郎が、ローラと八重の轡をとつて、其処に到着した。
「僕達は夫々馬を所有することが――決つたので――」
堀口等に先立つて竹下が云つた。「ドリヤンとリリーとラツキーが僕達の所有になつて――そして騎手が三人……」
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