ばんで、堀口の前からローラをさへぎつた。
「何も彼も私には好く解つてゐるさ。第一もうローラさんが着くといふ電報は君達よりも先に此方が受取つてゐるし……」
 ローラの顔には憂ひの色が浮んでゐた。滝本は、感情になど走つて、堀口のことをあんな風に説明したりしたことを後悔した。
 堀口が、彼等を、親類の人達も集つてゐることだから真直ぐに実家の方へ向ふやうにすゝめたが、滝本は
「森の家へ行くことになつてゐるから――彼方《あちら》で皆なが待つてゐるから――彼処《あそこ》で待つてゐる者だけが僕の友達であり、親類なんてには何の用もないから――」
 そして今はもう、森の家が、自分達の家なんだから――などゝ云ひ張つてゐるところに、武一と竹下と村井が八重も一処に伴れて、馬車でやつて来た。亢奮した滝本の眼から涙が滾れてゐるのを見て、一同は驚いた。
 ローラは自分の方に背を向けて堀口と何か云ひ争つてゐるフランクの背中を見てゐたので何も気づかなかつたが、店先に止つた馬車から降りて来る若者達が、何かたゞならぬ気色で、彼の周囲に駆け寄ると、左右からその腕を支へて堀口の前を離したので、はじめて彼の顔に気づいた。
「フランク!」
 ローラは突然左う叫んで、滝本の胸に縋りついた。
「どうも私には、さつぱり解《わけ》がわからんよ。」
 堀口は、首を傾げながら隅の腰掛けに凭つた。――「守夫君の心持が解らんのだよ、折角ローラさんがやつて来たといふ場合に、何を一体感違ひしてゐるんだらう、困つたなあ!」
 滝本はローラを抱いたまゝ、突然――涙が止め度もなく滾れ落ちるのを知つたが、何だかもう得体の知れない感情に掻き乱されて、泥酔の奈落に転落して行く見たいな没理性状態に走つて、声を挙げて泣いた。ローラも泣き出した。滝本は、さつき彼女を停車場で抱へた時と同じやうに両腕にのせたまゝ、馬車の中に戻ると、更にまた泣けた。
「ローラ、わたしのローラ――堪忍してお呉れ!」
 後は、そんなことを叫んでローラの胸に顔を埋めた。そして、しつかり抱き絞めてゐると急に、犇々《ひし/\》と、妹に対する底知れない慈しみの情が泉のやうに湧きあがつて来た。このまゝ、波にもてあそばれて底知れぬ水底へ沈んでゆく心地がした。
 一同の者は手の降《くだ》しようもなく呆然と、馬車の周囲をとり囲んで首垂れてゐるばかりだつた。
 ……「然し、それぢや、世間へ向つての義理合上から私達の面目が……」
「混血児の妹がやつて来たなんてことは、あんまりパツとさせない方が、それこそあなた達の世間態は綺麗でせうがね。何うせ、今迄だつて、きつぱりと秘し通して、こゝまで済んで来たといふ場合に僕達にはあなた達にも、このいきさつは何も解られてゐないと思つてゐたんですもの。」
「冗談ぢやない、十年も前から解つてゐることぢやないか!」
「……然し、ローラさんの今後の問題は何も彼も守夫に負はせて置けば――いや、それが当然の話で――」
「それはまあ今後の別問題として、今日の場合だ、何うしてこのまゝ君の家へ行つて旅装を解かせるなんて、そんな無茶な話を吾々が黙つて見過して居られよう!」
「然し……」
「いや然し……」
 堀口と武一が切りに口論を交へてゐた。
 こちらの馬車は、その間にもう徐に走り出してゐた。滝本の馬車の馭者台には百合子が、そして先へ立つた空馬車には八重が、互に何やら呼応し合ひながら、手綱を振つて駆け出した。竹下と村井が追ひかけて来て、別々の車に飛び乗つた。
「行つてしまへ/\! 百合さん俺が代らう。」
「行つてしまへば、それつきりだ――八重ちやん俺が手綱を持たう。」
 武一も追ひついて来て八重の馬車に飛び乗ると、空を切つて鞭を鳴した。二台の馬車は追ひつ追はれつのかたちで街道を駆け抜けると、再び断崖の中腹を縫ふ螺旋状の径道《こみち》にさしかゝつた。
 滝本は、夢から醒めたやうに顔をあげると悲し気な眼で空を仰いだ。ローラは彼の胸に凭りかゝつたまゝ、
「そこにゐる人達は悪人ぢやないの?」
 と竹下達を指して、小声で囁いだ。滝本は、思はず笑ひ出してしまつた。
「おい竹下、俺がね、堀口のことを悪人だとローラに紹介したところ、ローラつたら君達もその仲間で、此方が、ハンド・アツプに出遇つたのかと思つたんだつてさ。」
「なるほど――」
 と竹下は神妙に点頭いた。「見渡すところ凄い田舎だからな。ローラにして見れば、西部に来たやうな感じだらうからね。」
「大丈夫だよ、ローラ、これは皆な――僕達のキヤムプの仲間なんだから――云はゞ、吾々の危難を知つて救助にやつて来た義勇軍の面々さ。」
 滝本が左う云ふとローラは、ほんとうに安心して竹下に会釈した、ロココ風にさへ見へるはにかみを含んだ様子で――そして、漸く胸の震へが治つたが、さつきはフランクが余り意久地がないので、これでは到底フランクを頼つてはこんな怖ろしい田舎などには滞在出来ぬと思ふと急に情なくなつて、それで泣いてしまつたのだ、それにしてもあの時のフランクの様子は何うしても自分には了解出来ないが――などゝ云つた。
 馬車は、賑やかな笑ひ声を載せて明るい麦畑の中の道をすゝんでゐた。
「ローラさん、フランクは、ほんとうはとても強いんだから大丈夫だよ。」
 半ば滝本をからかふやうな調子で竹下が、フエンシングのチヤムピオンなんだからね! などゝ云ふと、ローラは生真面目に眼を輝かせて、そんなら何故さつきの無頼漢を畳んでしまはなかつたのか? と訊ねた。とう/\堀口は正真の無頼漢になつてしまつたわけである。家庭上のことや堀口のことに就いては、もう何もローラには説明しまい――と滝本は思つた。
「それや百合さんかローラが、いざ無頼漢に奪はれるとなれば、大活劇になつて――俺の誉れをお前に見物させてやることも出来たんだが、救助隊の来方が早過ぎたわけさ。」
「でも、この辺では屡々斯う云ふ野蛮な事件が起るの?」
 ほんとうに西部劇映画の世界にでも来たかのやうにローラが飽くまでも生真面目なのには滝本達も少々てれ臭かつたが、
「それあ、あるさ!」
 と云ふより他はなかつた。「都会生活者には到底想像もつかない素晴しい蛮風がいくらでも遺つてゐるよ。」
「ウヰルソン先生に見せてやりたい。先生は考古学にも趣味を持つてゐるから。――それにしても、さつきの蛮人の――」
 とローラはまた堀口を話材にした。「容貌は、お前達と違つて、眼の凹《へこ》んだ具合や鼻の嶮しい感じ、そして、笑ひなのか、憤りなのか区別のつけ憎い表情のあんばいは、日本人といふよりも寧ろギリヤーク族に似てゐるが、この地方にはヤマト民族と種別を異にした移住民がゐるのではないか?」などゝ学究的な質問を放つた。
 滝本は思はず頭を掻いて、
「その種の研究は未だ経験ないが――仔細に験べたならば或ひは新事実を発見するかも知れない。さう云つて見ると、彼《あ》の無頼漢一味の頭悩の働きは吾々とは余りに違つてゐる、彼等の血液は確に類を異にした原始性を交へてゐる。」と云つた。そして「その種の研究は別の日に話合ふとして、ローラよ、お前を悦び迎へてゐる吾々のためにロメリアの歌でも教へて呉れないか?」
 と話頭を転じた。そこでローラが滝本の肩に凭りかゝつて青空に眼を挙げながら、何か歌ひ出さうとした時、一同は、遥かの後ろから、声を限りに呼びかけて来る物音に気づいた。
「おーい、待つて呉れ!」
 振り返つて見ると堀口を先に立てゝ四五人の男がキヤベツ畑の畦道を伝ひながら一勢に双手を挙げて、夢中で呼ば張つてゐた。
「あツ! 逆襲して来た!」
 ローラは悲鳴を挙げて滝本の胸に突つ伏すと日本語で「あんちくしようめが!」と叫んだ。
 ギラギラとした逆光線をまともに面上に享けて、大口をあけて叫んでゐる堀口等の表情が、嘗て覚えたこともない獰猛さを溢《みなぎ》らせて、寧ろ怪奇的に、鬼のやうに滝本の眼にも映つた。

     十一

 竹下は、シーズンの制作に、海辺の風景を選んで、麗かな日だと午前《ひるまへ》から百合子やローラやそして八重達を誘つて、馬車で海辺へ通つてゐた。村から海辺までは、河添ひの田甫道に添つて一里近くの道程《みちのり》だつたが、娘達はビーチ・パヂヤマのまゝで、ギターや手風琴などを抱へて繰り出して行くのであつた。
「村井――もう起きたのか? 一処に出かけないか?」
 村井の部屋となつてゐる蔵前の中二階の窓が開け放しになつて朝陽が窓掛けに射しかゝつてゐるのを、庭先きから竹下が見あげて声をかけた。微風をはらんだカーテンがふわ/\とゆらいでゐたが村井の姿は現れなかつた。
「セブラ――起きろよ。」
 竹下は切りに呼びかけてゐたが――村井は危く寝台から落ちさうな姿で、ぐつすりと寝込んでゐるところなので、百合子やローラも一処になつて呼びかけたが、無論、無駄であつた。
 友達が編輯してゐる雑誌に「|南方の騎士《シルバー・ナイト》」の第一稿が載りはじめてゐたので、この頃の村井は、その続稿の執筆で徹夜を続けてゐる状態だつた。村に居る間に彼は、その創作を完結してから、皆なと一処に意気揚々と東京へ引きあげる決心だつたから――。
 寝台の傍らには、しほりを挟んだ古典の伝奇小説の本やら、画集の類ひやらが四散してゐて、卓子《テーブル》のまはりには書き損じの原稿が破かれたり丸められたりして飛び散つてゐた。
「誘惑の沼とセント・ジヨージ」
(第三章)――卓子の上の原稿には鷲ペンの太文字で、そんな表題が誌してあつた。鷲ペンの先をナイフで削りながら、文字を書くのが村井の趣味だつた。
「いくら呼んだつて駄目だよ、村井はもう少し前に眠つたばかりなんだもの――」
 泉水を隔てた書院の窓から滝本がまぶしさうな顔を出して、
「やあ、今朝は素晴しい天気だな!」
 と水々しい空を見あげた。
「だから、フランクも俺達と一処に海へ行きません?」
 ローラが窓側に駆け寄つて滝本の手を執つた。――「あゝ、間違へてしまつた、また! ――俺……ぢやなかつた、妾達と一処に。」
 ローラの日本語では、何時も囲りの者は笑はされたが、別段訂正しようとする者もなかつたので彼女は、男達の会話をそのまゝ模放して屡々突拍子もない言葉を使ふのであつた。
「だけど僕も、ほんの少しゝか眠つてゐないんでね……」
 滝本も、村井と競ふて徹夜することが多かつた。「星学大系」の翻訳を、夏のうちに片づけて、矢張り皆なと一処に間もなく新しい生活を目指して東京へ出発する筈だつたから――。
「斯んな綺麗な天気は、おそらく一ト夏のうちに三度とは見られないであらう素晴しさだぜ――行け/\!」
 と竹下はすゝめるのであつた。「村井の奴も無理矢理に引きづり起して来いよ。」
「武一は?」
「兄さんはね――毎朝とても早くからラツキイを伴れ出して、競馬場へ通つてゐるわ――馬車は八重ちやんところのリリイが曳いてるのよ。」
 草競馬の季節が近づいたので武一は、これが最後だといふ意気込みで、ラツキーのオーミングに余念がなかつた。その懸賞競馬にラツキイを出陣させて、皆なの出京費を儲けるといふ意気込みだつた。村井の「南方の騎士」にしろ、滝本の「星学大系」にしろ相当の報酬が得られる筈なんだから、もう隠退することに決めたラツキイを今更レースになんて出さない方が好からうと皆なが忠告するのも諾かず武一は、堀口や篠谷達への手前にも、何うしてもラツキーを勝たさずには置かない――と無闇に躍起となつてゐるのであつた。
 篠谷の太一郎は新しい馬を購入して、競馬場の人気を引きさらつてやる――といき巻いてゐるといふ噂だつた。堀口も亦近頃新しい馬の持主となつて、何某といふ騎手を手込めにして大儲けを仕ようとたくらむでゐるといふことであつた。道理で、近頃彼等は、こゝの家の土蔵のことにも、ローラに関する遺産の横領に就いての戦略にも(或ひは、此方側がそれに関しては余りに恬淡に放擲したので首尾好く占領し終せたものか――。)頓着なく、馬で、気狂ひになつてゐるといふ話であつた。
「リリイは出さないの?」
 滝本が不図八重に訊ねると、
「えゝ――」
 と八重は、
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